孤独と不安が和らぐ場所・子猫がお腹を出してぐっすり眠る家
人が大勢の人間の中で感じる孤独はひとりでいるときの淋しさよりも、厄介なもの。山にこもって修行するよりも精神的にはハードルが高いのかもしれない。
「こんなにたくさんの人間がいて、みんな俺よりしあわせそうだ。どうして俺を理解してくれる人がいないんだろう」
「なぜ私だけ、こんな人生を歩まなくちゃいけないの?ただ普通に暮らすことができないなんて。くだらないことで悩める贅沢を味わいたい」
「昔はよかった。楽しかった。心から笑わなくなったのはいつからだろう」
そんな風に悲劇を自己創作しやすいから。引き金になるのは比較。他人と比べる。今ではない自分の姿と比べる。理想の自分と比べる。周りにたくさんの人間がいることで比較相手が簡単に見つかってしまう。
極論を言ってしまえば生まれてきただけで、生きているだけで、とても恵まれている。明石家さんまさんと大竹しのぶさんの娘の名前の由来どおり。
生きてるだけでまる儲け。
もっと〇〇したい、もっと〇〇になりたい、という感情が成長を促す程度の健全な原動力であるならば、それでいい。劣等感や自己否定感の元凶になるなら比較をすっぱりやめるのが手っ取り早い。
ひきこもり状態になっている人は、そうやって自己防衛している。うつの症状も基本構造は同じ。感情や肉体の動きを閉じ込める行為で自分自身を、命を守っている。
比較しないでいい状態を創り出すことで命の灯を守る。社会生活から物理的に自分の身体を切り離すことで、比較から生まれる重い感情を抱かないように殻に閉じこもる。
家にやってきたばかりの白猫スカイの怯えた姿を思い出す。数時間前まで一緒にいた親猫や兄弟から引き離されて、見知らぬ大きな生き物に囲まれて、知らない匂いの場所に連れて来られた小さな命。
ここは安全な場所だよ。
怯えている間はそれを示してあげることしかできない。ひとりで隠れてうずくまっていたいならば、好きなだけそうさせてあげる。寒くないか、危険な物がないか、それだけをそっと確認する。
やがてお腹を空かせたスカイは美味しそうな餌の匂いを嗅いで、家具の裏から出てきた。体が小さいので食べるとすぐに排出する。トイレではない場所に便を出した。
怒ってはいけない。
怯えてしまうから。その便を専用猫トイレの砂の上に置く。仔猫に自分の便の匂いと場所をつなげて覚えさせる。個体差はあっても動物はすぐに理解する。
次男がおむつをとった直後、うんちを漏らした。便座に座るタイミングより前に出てしまった。ほんの少し間に合わなかっただけ。それなのに私は大人の事情のイライラを息子にぶつけた。怯えた次男はしばらく便座恐怖症になった。座らせようとすると大泣き。
幸い近所の男の子が座って用をたしている姿を見て安心したのか、その症状はすぐになくなった。子育てをすることで親も一緒に成長する。
仔猫も人間も生命維持のために寝て食べて排出する。安心してその行為ができる場所だとわかれば第一段階クリア。
眠いときにゆっくり眠れる。
お腹が空いたときに食べ物がある。
体内から不要なモノ排出する場がある。
これが揃えば、生命維持の基盤が整う。
それなのになぜ、家・食べ物・トイレがあっても病に悩まされる人間が多いのか。理由は単純。眠り・食品の質が悪くて、排出できないモノが体内に溜まる。だから心身が病む。
全ての病の原因はここにある。遺伝以外の心身の病の原因はそれだけ。
「必要な栄養が入らず、過剰なものが出ていかない」
健全な流れがないのだ。生命維持に「入れて出す」という行為は必須。それが物資的なものであれ、精神的なものであれ。
そもそも人間は男性器を女性器に入れて精液を出すことで種を繋ぐ。卵に精液をばら撒いて生まれた数千数万の稚魚が成体になるまでにほとんど食べられてしまう種とは異なる。
性産業に巻き込まれたヒトは、そんな魚のような世界を生きているようだなと思うことがある。話がそれるのでここでは深入りはしない。
遺伝的な引き金も関わるだろうから、個人の基礎的な身体の違いによって耐性に差はある。けれど個々の限界値を超えると歪みは病となって発症する。
暑さ寒さから守られる休息の場であるはずの家がごちゃごちゃと物にあふれて落ち着かない。売るために作られた妙な食品ばかりを食べる。体内に毒素が溜まる。水洗トイレやウォシュレットがあっても流しきれない汚れが溜まるように、不要なゴミとストレスを抱えて生きる。
これをやっているから普通に暮らしているはずの普通にみえる人が病む。
家を整え、食と睡眠を大切にする。
たったこれだけの事ができない。単純なことなのだけれど、簡単なことを淡々と続けることが、おそらく難しいことなのかもしれない。
だって家族が…親が…子供が…仕事が…国が…と責任を誰かや何かになすりつける。確かにやむを得ない場合もあると思う。だけどホントになにもできないはずはない。
自分の持ち物を整えることできるよね?
脱いだ靴を揃える。服をたたむ。かばんの中身を点検する。財布の中のレシートを捨てる。ささやかでも必ずできることはある。
食べているモノに何が入っているか調べることできるよね?
店で商品の梱包に書いてある原材料の表示を読む。インターネットで添加物のことを学ぶ。流通過程のためにどんな手段を使っているのか情報を集める。
知ることで怖くなることもあるかもしれないけれど、知らずに微量な毒物をずっと食べ続ける方がもっと厄介だと思う。知った上で個人の選択として口に入れる行為と、知らずに毒素を溜め込むことは、全く別の行動。
自分が抱えている感情や違和感を観察することできるよね?
ここは少しハードルが高い部分かもしれない。なにしろ人間という生き物は幾重にも仮面を被ったり、演技することを「成長」と呼んで伝承している生物だから。
私の場合は「整えていたつもり」だった。目測が得意なのでパズルのようにピタリとはまる収納が上手かった。だからびっしりと物置きやガレージに物を詰め込んでいた。
「ちゃんと食べているつもり」だった。普通に売っている食品をバランス良く買って、普通のレシピを繰り返していれば問題ないと思っていた。添加物や食界隈の物流に関する情報に無頓着だった。
「ストレスも不満も抱え込んでいないつもり」だった。2人の子供を育てながら異国の地で暮らすならば、多少のいざこざはあたりまえだと飲み込んでいた。周囲が笑顔になるならば、自分自身は後回しでいいと思っていた。
自分の持ち物を取捨選択して、私が管理している家の物を整え、家族の持ち物の置き場所を作った。
できる範囲で添加物の少ない物を選び、なるべく毒性の少ない食生活ができるように心がけた。
母親であり妻であることを、たまには放棄して読みたい本を読んだり、創作活動に没頭した。家事が多少たまっても、自分の体調が優れないならば休むことを優先した。
そんな風に家・食生活・眠りを大切に暮らし始めることで、自分自身も家族も自然といい方向へ流れていく。
よくあるステージ変換期の悩みは「家族が理解してくれない」「私はこうしたいのに協力してくれない」というもの。ひとりで片付けても家族が家を散らかす。
確かにそういう時期もある。
そのときにフォーカスすべきなのはまず「自分が管理する物・場所」に集中すること。いろんな人がやり方を伝えているので、方法や手順はここでは割愛。
とにもかくにも、人は「自分ができていないこと」が気になってしまう動物なのだ。これはたっぷり自覚症状例があるから、いくつでも経験談を羅列できる。
素直に甘えられなかった頃は、やたらと甘える人を見るとムカついた。損得勘定で人間関係を測っていた時期は、天真爛漫な人の魅力を妬んでいた。
さて、タイトルに戻る。
孤独と不安が和らぐ場所。これをどうやってつくるか。よほど酷い環境で暮らしていない限り「どうやって見つけるか」ではない。基本的には自分でつくるものなのだ。
過去にしがみつくのをやめて、遠すぎる未来のことを心配し過ぎるのをやめる。身の回りの空間を整える。身体に悪いものを食べることを控える。ぐっすり眠る。守るべき命があるのならば、彼らにもその環境をつくってあげる。
子猫がお腹を出してぐっすり眠る家。
誰かと暮らしていても、ひとり暮らしでも、自分のなかにいる幼い子供(インナーチャイルド)が安心して、食べたり寝たりうんちしたり遊んだりできる場所をつくる。そこに比較やら名誉・肩書・評価なんていらない。
心と身体と魂の安心・安全・安らぎ。
これが地球と宇宙平和の第一歩。
本日は獅子座満月。
いい天気。洗濯物を干してから散歩へ行ってきます。
素敵な1日をお過ごしください。