学びが生じるとき
体験と言葉を往還すること。これは「学び」のプロセスであると感じている。
多くのことを体験し、頭の中は全く整理されていないけれど、高揚感に浸っていて、そのごちゃごちゃしている感じにわくわくし、その時はうまく言葉にできないけれど、何か新しい世界が見えてきそうだ、という感覚。そして、その体験の後もゆっくりと時間をかけて言葉に落とし込んでいこうとするプロセス。
これを「学び」と捉えるならば、「学び直し」はいつでもどこでも可能である。しかし、このような「学び」が生じた時のことを振り返ってみると、ただ一人でどこかへ出かけて「学び」が成立したわけではなかった。「学び直し」が生じたのはどのような時だったのか、考えてみたい。
1つ目は、目的が弱いときである。普通、人が集まる時は目的が決まっている。しかし、そのような時、目的を達成するために必要でないことは排除されてしまう。
そもそも、「学び直し」とは、自分がそれまで持っていなかった考え方を手に入れること。だから、初めに目的があって、それに向かって何かが行われるというような意図的な場において「学び直し」は生じにくい。
目的なしでは成り立たないが、目的を弱め、ただ集まった人とのやりとりを楽しむこと。そうすることで、話題が脱線することも、やることが決まっていない時間があることも許容される。
さらに、目的を弱めることで「期待」からも解放される。何かに参加するとき、人は何らかの期待を抱いてしまう。だから、自分の期待に合わなかったとき、がっかりする。私たちは無意識のうちに学ぶことに対して受動的になっている。しかし、元々目的なんてないのであれば、期待もしない。むしろ自らが学ぶ主体になれる。
以前、研修を企画していた時、講義等のスケジュールをぎっしり詰めるのではなく、参加者どうしの「ふりかえり」の場を設けていた。だが、この必要性はなかなか理解されにくい。「学ぶ」というと、どうしても誰かから何かを「受ける」ことを重視しがちであるが、「ふりかえり」のような決まっていないスキマの時間があることで生まれる何かがある。効率が求められる社会において、あえて目的を弱めてみることも必要なのである。
2つ目は、集まった人たちの「ネガティブ・ケイパビリティ」が高いときである。ネガティブ・ケイパビリティとは、レベッカ・ソルニットの「暗闇の中の希望」の中で、次のように説明されている。
目的を弱めることとも関連するのだが、集まった人たちが、何かよく分からないことを分からないものとして受け入れる能力が高いことが、学びの場を生み出すのに重要である気がする。目的が明確なところでは、これから何が起こるのか想像できる。仕事などでも問題が何であるのか、どう解決するのかを考えることが求められることが多い。しかし、世の中に分からないことは山ほどある。その「わからなさ」をおもしろがって受け入れ、正しい答えを出そうとするのではなく、それぞれの人が多様な意見を言い合い、あーだこーだと議論ができるような雰囲気が必要なのだと思う。正しい答えや達成したい明確な目的があるわけでもないとき、すべてが受け入れられる。想定外の出来事、ハプニングさえも受け入れられる。そんなとき、いつもと違う視点が見えてくるのかもしれない。
今自分がもっているフレームワークでは理解できないことを、新たなフレームワークをもって捉え直そうとするとき、「わからない」というステップを経る必要がある。その次のステップで、少しずつ言語化して自分の中に落とし込んでいく。これが学び直すことであると私は思っている。