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マジョリティの特権

政府が育休制度を充実させると言っている。それはないよりはいいかもしれないが、日本でジェンダー不平等がいつになっても解消されないのは制度の問題だけではない。

父はこの春、定年退職を迎えた。職場の方々に見送られて帰ってきたことを聞くと、これまで良い仕事をしてきたんだなと嬉しく感じるし、尊敬もする。そして家族を支えてくれたことに感謝もしている。一方で、専業主婦である母がいたからこそ、遅くまで働き、最後まで勤め続けることができたことも事実である。父は私たち家族に、「家族の支えがあって仕事ができた」と言ってくれたし、父が家族のことを考えてこなかったというわけでもない。でも、そこにこそ、ジェンダー不平等の問題が隠れているのではないか。

昨年、私の職場では、2人の男性に子どもが生まれた。一人は育休を取り、一人は取らなかった。そして、他に子育て中の女性もいる。この3人、小さい子どもがいるという条件は同じである。しかし、出張ができ、残業ができる育休を取らなかった人が、職場では評価される。そして、それは育休の期間だけの問題ではない。子どもは成長を続け、その後何年も放っておくことはできない。家のことをどのように分担するかは、個人が家庭内で話して決断すべきことであるので、その決断自体にあれこれ言うつもりは全くない。でも、これまで毎日毎日残業をする「おじさん」たちがたくさんいたように、出張ができる、残業ができるという働き方ができる人が評価されるという状況は変わらないままなのである。

この状況の中で私(女)は、これからもし子どもができたときに仕事を続けられる自信は正直ない。このことを男性陣の中で打ち明けたら、「効率よく仕事できる人ならば大丈夫でしょ。個人の仕事の仕方の問題じゃないの?」と返されてしまった。その人たちは、家族に支えられて今の(優位な)立場を獲得していることを自覚しているのであろうか。もし彼らの妻が、同じ会社で同じ条件で働きたいと言ったとき、今のままのやり方を続けられるのだろうか。

この無自覚性がジェンダー不平等の難しいところである。女性だけが状況を変えようと努力してもあまり変わらない。女性も男性も共通の問題意識をもち、変えようとしたときに初めて変えることができる類のものである。

おそらくこれはジェンダーの問題に限らない。私が無自覚のうちに優位な立場にいて、マイノリティの抱えている問題に気づかないということもたくさんあるのだろう。斎藤幸平は、それを「自分のマジョリティ性」と呼ぶ。完全に相手のことを理解することはできないが、問題を当事者だけに押し付けるのではなく、自分もその問題に関わっているのだという自覚をもつ必要があるという。

多くの人にとって「自分には語る資格がない」と声どころか、考える能力さえも奪うことになる。その先に待っているのは、無関心と忘却である。・・・それは、考えなくても済むマジョリティの甘えであり、特権なのだ。

斎藤幸平「ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた」p.216

システムの中にいると、考える必要がなくなってしまう。でもジェンダー不平等の無自覚性を感じた今、私がもつ特権の無自覚性ゆえに傷つけてきた人がいるであろうという事実に戦慄する。

まずは退職した父のお祝いをするとき、これまで家族を支えてきた母も同様に、いや、それ以上に感謝の気持ちを込めて労おうと思う。


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