生保マダムと印税の夜
生命保険の営業のおばさまが、エルメスのスカーフを首にまといながら言ったものだ。
「先生、月額は上がりますけれどもっと補償の高い保険にご加入なさった方がよろしいと思います」
「いや、月額〇万円というのは、ちょっと、私には支払いきれません」
「いえいえ先生のお立場でしたら、これくらいのご負担額は必要かと思いますわ」
ゴリ押しの営業を、エルメスおばさまは軟らかい言葉で私に勧める。
「収入と釣り合いがとれないんですよ」
押し問答の後に、沈黙が訪れた。
「先生……、これまでに何冊の出版をなさいましたか」
「はぁ、二十冊余りです」
「それでしたら、過去の書籍の印税と、これからお書きになる書籍の印税とで、ますます収入は増えてまいりますでしょう?。やはりこれくらいの補償はあったほうがご安心ですよ」
「いや、過去に出してもらった書籍の印税はもう入って来ないですよ」
「えっ?」
エルメスおばさまは、紅茶カップを皿に置きながら絶句した。
私が用意したウェッジウッドの赤い紅茶カップだ。
「それでは、印税はどこかに寄付なさっているんですか?」
すれ違う押し問答を整理すると、こうだ。
おばさまの想像……。
過去に出版された書籍の印税は今も入り続け、これから出版する書籍と合わせると雪だるま式に収入は増えていく。
私の現実……。
過去に出版した書籍は、古書か図書館で読まれるだけで、印税は発生しない。書き続けて原稿料を稼がなければならない。しかし、出版不況のあおりで、私の書籍を市場に流してくれる出版社は皆無。ウェブ記事の原稿料は驚くほど安い。かつて雑誌1ページにつき4万円だった原稿料は、ウェブ市場で換算すると1500円にまで下落している。だからお金はない。
エルメスおばさまは、もう紅茶のカップには目を移さなかった。
上品さはどこへやらで、身を乗り出すようにして私に詰め寄る。
「でも、高橋ジョージさん。虎舞竜の、あの ♪何でもないようなことが♪ の歌手の人。あの曲の印税で今は働かなくても、お金に困らないって……」
再びの絶句。気まずい沈黙。
音楽の著作権は、カラオケで歌われるだけでも、音声配信で聴かれるだけでも、どころか歌詞の引用で何かに転用されるだけでも、作詞家、作曲家、ときに編曲家、そして歌手にまで印税が発生する。
二次使用、三次使用に至るまで使用者から徴収する。
そして著作権者に支払われる。
書籍は、このシステムがまったくない。
一冊の書籍が新刊扱いのまま、二年でも三年でも書店で売れ続けたのは昭和の半ば頃までだ。
川端康成、井上靖、檀一雄、松本清張、安部公房、三島由紀夫、遠藤周作、野坂昭如、柴田錬三郎、大江健三郎、司馬遼太郎、池波正太郎……。
まぁ、このあたりの有名作家が活躍した時代までだ。
芥川賞か直木賞をとれば、一生が安泰だった時代は、もう昭和の半ばあたりでついえている。
私なんぞは、そんな文壇の流れにまったく気がつかず、うっかり作家に、うっかり小説家になってしまったくちなのだ。
と……↑↑↑な事情を、エルメスおばさまに説明するのに手間がかかった。
「でも、そんなことおっしゃimasuke▲◇◎×……」
作家としての経済事情を、これまでに何人に、何回、話してきただろう。
サザエさんに登場するイササカ先生の、まだあんな風に作家先生然として尊敬されながら生活できている、というイメージが払拭できない。
国語のお勉強がデキる少年に待っていた未来が、まさかこんな結末だとは私自身が想像もしていなかった。
エルメスおばさまが、そんなはずはない、そんなはずはない、そんなはずはない、そんなはずはない……と、高額生命保険への勧誘をいつまでもやめない夜はとても長かった。