『墜落遺体』
『墜落遺体』はノンフィクションである。著者は当時高崎署刑事官として身元確認班長となる。
1985年、単独としては世界最大の航空機事故。
藤岡市民体育館に収容された遺体。
マスコミを遮断するために暗幕を張り、体育館内は40度以上になった。
腐臭を放ち、蛆が湧き、切断、欠損したあまりにも凄惨な遺体の数々。上腕のみ、あるいは手首だけの。
シートベルトのために多くの遺体が下腹部で断裂していた。そのために母体外に飛び出した焦げたミイラのような胎児遺体。
前頭部が飛び、両手、両下肢がちぎれた黒焦げの父の遺体の前で「僕は泣きません」と14歳の長男が唇をかんでいる。
「泣けよ」と少年の肩を叩く若い警察官の目からはボロボロと涙がこぼれ落ちている。
確認の説明をした歯科医師が涙を呑み込もうと天井を見上げている。
二歳くらいの幼児。顔の損傷が激しく、半分が欠損。それなのにかわいい腰部にはおむつがきちっとあてがわれている。
写真担当の巡査のカメラのシャッター音が止まる。
彼も検視官も医師も看護師も汗とともにこぼれる涙を止められなかった。
墜落中の極限の恐怖の中で家族に遺書を書いた乗客がいた。乗客に安全のために墜落直前まで指示を出し続けたスチュワーデス(当時の呼称)がいた。
日航事故を題材にした横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』は映画化もされた。元新聞記者である著者の経歴が縦横無尽に生かされている。
上毛新聞(映画では北関東新聞)の遊軍記者、悠木は事故関連の紙面編集を担う日航全権デスクを命ぜられる。同新聞社にとっては「大久保・連赤」以来の大事件だ。
日航機墜落事件、友人と約束した登山、息子との不和、地方新聞記者の矜持、新聞社内での確執といったことが重層的に書かれる。
戦場のような御巣鷹山の現場を目にした記者が雑観を書く。
これは映画でも一字一句そのまま引用された。
「若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱き抱えていた。
赤い、トンボの髪飾り。
青い、水玉のワンピース。
小麦粉色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は天を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
鳥はさえずり、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった_。」
悠木は赤ペンを置いた。感情が収まるのを待って席を立った。
整理部長に原稿を渡した。
「カクさん、これ、一面トップで」
「どうしたん?赤い目して」
悠木は答えず、ネクタイを緩めながらドアに向かった。
まさに現場は地獄さながらであった。
ヘリで実際に出動した自衛官は岩肌に張り付いた内臓や木からぶら下がる毛髪のついた頭皮などを目撃する。現場に来た連絡幹部がヘリポートの運用を指揮していた自衛官に「今日は何体運んだ?」と聞き、彼は返答に窮する。
遺体といっても、五体満足なものは少なく、手だけ足だけといった部分遺体も多く、何体と言われてもわからない。
即答できずにいたら、「それでも責任者か!」と叱責される。その自衛官は部下の一人に「おい、そこの毛布を開けろ!」と命じ、そして「あなたには、このご遺体が“何体”かわかるんですか!?」と聞き返すと、黙ってヘリに乗って帰っていった。
多くの自衛官は急性ストレス障害に悩まされ、長い間、肉類を口にできなかったという。
毎年この日になると彼らを想う。
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