故郷からの便り、相撲と理容室
先日、山陰の地方紙「日本海新聞」から掲載の御礼にと図書カードが届いた。
以前二回投稿したので、どちらが掲載されたのだろう。12月24日掲載分、とあるので図書館でバックナンバーを読んだ。ああ、この投稿かと思い、新聞社が付記した末尾の言葉に心臓が止まるかと思うほど驚いた。以下は掲載記事である。
「小学生の時のことだ。新聞を読んでいたら、米子市内で理容店を経営しているという20代の人の投稿文をを見つけた。田舎の町の名前が全国版に掲載されるというのは子ども心にも誇らしかった。それから何度もその人の投稿が掲載された。内容は日常のこと、時事問題、大ファンだという相撲のこと。高校卒業後に故郷を離れて新聞を購読し、その人の投稿を読むたびに故郷を懐かしく想った。
就職、何回かの引っ越し、結婚、子どもが生まれ、購読紙は変わっても投稿は続いた。
息子さんが小さい頃からの夢を叶えて相撲の呼び出しになったという投稿を読んだ時には身内のように嬉しかった。
50歳代のある日、帰省したおりにそのお店を訪ねてみようと思いついた。
少々迷い、道を尋ねながら緊張して店頭に立った。生家から歩いたら10分ほど。それなのに40年以上もかかってしまった。
文章から謹厳実直な人を想像していたが、気さくな人だった。
髪を切ってもらいながら、ご主人と話題は弾んだ。相撲ファンが投稿を読んで遠方から訪ねてくることもあるという。帰り際に投稿文をまとめて自費出版した本を二冊いただいた。
あれから6年になる。三冊目になる『またまた読んでごしない』を購入し、拝読した。息子さんにはお子さんも生まれ、ご主人の夢は両国に住むことだという。
先日東京に所用があり、ご主人を思い出し、初めて両国界隈を散策した。下町情緒が色濃く残るこの街が私もいっぺんで好きになった。自営業なので引退時期を悩んでいると言っておられた78歳のご主人は今も現役でおられるようだ。新聞が取り持つ故郷との縁。毎朝故郷からの便りを期待して朝刊を開く。
※服部直記さんは先程、急逝されました。」
最近投稿を目にすることがなかったのはそのためだったのか。
服部さんは優しい人だった。初めてお店を訪ねた時に雑誌に掲載された投稿のコピーをいただいた。それには相撲の呼び出しになるため、息子さんを大阪巡業中の部屋に預けた時のことが書いてあった。親方に息子をよろしく頼みます、と部屋を出る。歩きながら涙が止まらない。道ゆく人はそんな私を見て怪訝に思ったことだろう、と。子を思う親の心配や寂しさが痛いほど伝わってくる文章だ。
服部さんはまた正義感のある人だった。自著にあったが、デパートで母親と小学三年生くらいの男の子の話を耳にする。足の悪い人が歩いているのを見て、「あの人、若いのに歩き方がおかしいね」と子どもが言うと「おかしな歩き方だね」と母親。服部さんはこれに憤慨する。その青年が今までどんな思いで生きてきたか、と。
服部さんがバスツアーに参加した時のこと。相撲に関連した場所をバスが通り、ガイドが相撲について間違った発言をした。前列にいた服部さんは「それは違います」と訂正する。愛する相撲に関しては黙っていられない。
服部さんは小柄で一見、柔和な人だったが内には激しさを秘めていたと思う。
激しさといえば息子さんの話を思い出す。小さい頃から呼び出しになりたいと、何かを太鼓とバチに見立てて暇があれば叩いていた。奥様が「呼び出しになるのを諦めたら本物の太鼓を買ってあげるよ」その言葉に息子さんは言い返す。
「お母さんは僕に呼び出しになる夢を諦めろと言うんか!」
散髪屋さんは寡黙な職人肌の人も多いが、服部さんはとても社交的な人だった。特に相撲の話になるとイキイキと自分の趣味を語る少年になった。仕事の合間に、この匂いが大好きなんです、とびんづけ油のふたを開けて嗅いでおられた。
いいなあ、と私は思う。ギャンブルは一切しない。自分が書いた文章が地方紙や全国紙に載る。それが一番の楽しみ。素晴らしい人生だと思う。
初めて投稿したのが「少年サンデー」だそうだ。
それから掲載されたのが、ざっと7000回。死ぬまでに一万回を目指したいと言っておられた。
新聞を読んだ遠方の相撲ファンがわざわざ訪ねてくることもある。
理容室は相撲のグッズが所狭しと置いてあり、まるで資料館のようだった。相撲に無知な私が初歩的な質問をしても丁寧に教えていただいた。
もう一度話したかった。いや、何度でも話したかった。
図書館の帰りに涙が出た。今もご主人のことを思い出すと涙が出る。もう故郷からの便りは届かない。
ありがとう、ご主人。
本当にありがとうございました。