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死刑制度を考える

死刑については存置論者と廃止論者で論争が続けられてきた。加害者にも人権がある、冤罪は起こりうる、いや、抑止力はどうなる、などなど。死刑制度と死を考える二冊の本を読んだ。

「19歳 一家四人惨殺犯の告白」永瀬隼介


92年に一晩で一家四人が惨殺される事件が発生。その中には四歳の女の子も含まれていた。現行犯で逮捕されたのは、19歳の少年だった。暴力と憎悪に塗り込められた少年の生い立ち、その心の闇。読み進めるうちにその生い立ちと凶行にどうしようもなく暗澹たる気持ちになる。
その少年が収監されている東京拘置所に面会に行く教誨師がこう語る。

「残酷な許しがたい事件です。しかし、わたしは彼の心の変わりようも見ています。拘置所で、彼に、『あとから食料を差し入れるから、何か欲しいものはありますか』と告げると『できれば缶詰は避けてください。缶詰は担当の刑務官の方に開けてもらわなければなりません。余計な手間をかけたくないのです。』と言うほど、周囲への配慮を示すようにもなっています。わたしは、でき得るならば、死刑にして欲しくない、というのが本音です」

人間の心という不思議さが窺える箇所だ。

「首を吊るされることが決まっているのに、毎日今日か明日かと、死の足音に怯えながら暮らさなければなりません。想像するのも嫌な生活です」

という少年。

死刑囚はいつ執行されると知れぬ死に対峙することにより、そこで本当に被害者の心情を理解し、反省を深め、人間に戻っていくという。少年も例外ではなかった。死刑制度というものが存在しなければ決して到達できない心情だと私は思う。

2001年、最高裁判所の上告棄却により、死刑確定、その16年後の2017年に死刑が執行された。

「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」井村和清

映画化もされた。内科医、井村医師が死の直前まで綴った手記である。30歳のときに悪性腫瘍の転移を防ぐために右脚を切断。驚くべきなのは青年医師の人柄だ。小学生で「フランダースの犬」を読んで泣いたという優しさ。娘にはこう書く。

「自分の周囲の人が悲しんでいれば、それを自分の悲しみと感じ、まわりの人が喜んでいれば、それを自分の幸せと感じられる人に育ってほしい。そんな子に育ってくれたなら、私はもう何も要らない。」

彼が死の直前に残した詩は胸を衝く。

「あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事が食べられる
夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる
空気がいっぱいすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんな決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ」

井村医師は二人の娘(一人はまだ生まれていなかった)を残して32歳で亡くなった。
死刑囚と死期が迫った癌患者。
絶対的な死というものを深く考えさせられる。

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