手塚家の関西と東京
関西法律学校(現在の関西大学)の創始者の一人である児島惟謙のことは大津事件でよく知られているが、手塚治虫の祖父、手塚太郎もその一人であった。彼は江戸で生まれ、治虫の父、粲(ゆたか)も東京生まれで、中央大学卒業後に大阪の住友倉庫に勤務した。彼はアマチュアながら有名な写真家でもあった。
司法官であった太郎が大阪地方裁判所時代に関西法律学校の設立に関わった。退官後に現在の宝塚に住む。太郎の死後、息子の粲夫妻は彼の屋敷に引っ越した。手塚治虫の「リボンの騎士」が宝塚歌劇の影響を受けていることはよく知られている。
太郎の父、医師の手塚良仙は治虫の「陽だまりの樹」で有名だが、江戸生まれの良仙は大坂の「適塾」で学んだ。
治虫が上京し、漫画家として成功した後に杉並区に自宅を建て、宝塚から両親を呼んで同居した。
粲は手塚プロダクションに来るファンを一人一人持てなしたことが「手塚治虫 アシスタントの食卓」堀田あきお&かよ(堀田あきおは手塚プロダクションで2年7か月アシスタントをしていた)に描かれている。この本の中で一番驚いたのは手塚が興にのるとピアノを弾いてアシスタントたちをうっとりとさせたことだ。いつ練習したのだろう。天才とは努力を怠らない人なんだなあ。