私がファクトチェックに関わる理由 ~正しい事実の認識は平和への第一歩~
私はファクトチェック専門メディアの『リトマス』の運営に関わってる。活動をする中で「ファクトチェック」という言葉にネガティブな感情を抱く人が一定数いることを知った。それはどうやら、ファクトチェックという行為が「上から目線」であると思われるからのようだ。確かに理解できないこともない。自分の発信した情報が事実ではないと言われたら、誰でも良い気持ちにはならないだろう。私だってファクトチェックの対象になりたくないと思う。でも、それでも私はファクトチェックが必要だと思うし、ファクトチェックに関わっている。それはファクトチェックが平和な世界をつくる第一歩になると信じているからだ。
そもそもファクトチェックとは
日本でファクトチェックを広める活動をしているファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)のサイトには、ファクトチェックについて以下の通り書かれている。
そして、基本的なルールとして3つ書かれている中に「事実と意見の区別」という項目がある。ここが私のお気に入りポイントだ。
つまり、書かれていることが事実でなければチェックをするが、事実を基にしていれば、どんな意見を言うのも自由だ、とも捉えることができる。
誤情報がまん延している世界
では誤情報がまん延していて、正しい事実を共通認識として持っていない世界では、どのようなことが起きると考えられるだろうか。
まず、話がかみ合わない。前提としている事実が違うので、コミュニケーションを取るのも難しくなるだろう。最近だと新型コロナの誤情報がそうだ。例えば、一部で「新型コロナは存在しない」という誤情報が流れていたが、それを信じている人と、「新型コロナの存在を認識し、新型コロナの対策をしよう」と考える人が話をしたとしても、話はかみ合わないまま平行線をたどるだろう。これは「異なる事実」を認識していることが原因だ。
新型コロナの誤情報の時には、共通の事実を基に議論ができないせいで、建設的な議論ではなく、相手に対する人格否定や、全く関係のない情報を引っ張り出してきての誹謗中傷をしている例も多く見られた。正しい事実は何か、についての話ではなく、「こんな情報を信じているあなたはおかしい」という非難が始まってしまっていたのだ。それでは対立は増すばかりである。それは平和な社会とは程遠く、誰も何も得ることのない、意味のない醜い争いのように見えた。
正しい事実が認識されている世界
一方、共通の正しい事実を認識している場合であれば、たとえ意見が異なったとしても、それをすり合わせたり歩み寄ることができる可能性がある。
意見の土台になるのは事実だ。正しい事実を認識した上で、自分の意見を持つことが大切だと思う。その上で他の人とコミュニケーションを取りながら、他の人の意見を聞きながら、自分の意見と比較しながら、自分の意見を発展させていく。つまり一番最初に「正しい事実を認識する」ということは欠かせないのである。
そのためにも、まず第一歩として、正しい事実を公表する営みであるファクトチェックは大変意味のある活動であると思っている。ただ、すべての情報をファクトチェック団体がチェックすることはできないので、ファクトチェックのやり方や考え方を広めるためにメディア情報リテラシーについての授業を別の会社であるインフォハントで行っている。
正しい事実を認識することで、平和な世界を作る、とはきれいごとだと思われるかもしれないし、実際にきれいごとなのかもしれない。でも、そんなきれいごとであり理想の社会を、私はこれからも追い求めていきたいと思っている。
※この記事に書かれていることは筆者の超個人的動機/意見であり、所属する団体とは全く関係ありません
おすすめリンク
● ファクトチェックナビ
ファクトチェックイニシアティブが運営するファクトチェックの記事一覧
● リトマス
私が理事を務めるファクトチェック専門メディア
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