ばあちゃんが教えてくれたこと
このシリーズでは、私(33歳シングルママ)が、亡き祖母から教えてもらったことを思い出しながらご紹介いたします。
第1話
あたりまえの愛情?
「お母さん(私の母のこと)は〇〇(私)のことが大切だから、買ってくれたんだね。」
よく、こんなようなことを祖母から言われました。
物心ついたときには母子家庭で、当時はまだ母子家庭が少なく、専業主婦もまだまだ当たり前な時代でした。共働きはたまにいるかな、程度。
私が小学生くらいのころの話かな。
親は休みなく朝から晩まで働いていたので、親子で会話すること自体がほとんどなかった。
ご飯も洗濯などの家事も、全て祖母がやっていた。
ひねくれた心を持っていた私は当時、「(お母さんは)家事もしないで働いてばかり。私は家族で旅行だってしたことない。ほしいものも買えない。したい習い事もさせてもらえない。服だってたまにしか買ってくれなくてほとんど誰か知らない人からのお下がり。会話だって無い。私の成績にだって無関心。私がいじめられていても、無関心。そんなんで私に愛情があるわけがない。」と思っていました。
それでも、たまに買ってくれるときがあったり、母が認めた習い事だけはさせてもらえていました。
祖母はよく、私に言いました。
「お母さん(私の母)は、〇〇のことを思って、昔自分が習えなかったピアノを習わせてくれているんだよ。」
最近までは、この言葉が嫌いでした。
自分がやりたかったことを子どもに押し付けないでほしい、本当に私のことを思っているなら発表会くらい来たらいいのに、と思っていました。
「お母さんは、〇〇(私)のことを思って、この食べ物好きかなって思って買ってきてくれるんだね。」と言われた時は
親なんだから、子どもに好きな食べ物くらい買って当たり前!むしろ、好きな食べ物買えばいいって思われるの嫌だ!とさえ思っていました。
親になった今、思います。
なんてひねくれた子どもなんだろうと 笑。
でも、当時はそう思ってしまったことも事実。
また、つい最近まで、ひねくれたままだったこともまた事実。
愛情って、子どもに「大好き」とか「かわいい」とか言ったり、誕生日を祝ってもらったり、好きな習い事などをさせてあげたりすることだと思っていました。だから、そんな風に言われたことのない私は、ダメな子どもなんだだと思っていました。
でもそれは違います。
意識しなくても、当然のごとく、「明日は何を作ろうかな、何を買って行ったらいいかな。」と思い、買い物をしていること、それこそが愛情だったのです。
意識しなくても、当然のごとく、「中学になったらお金かかるー!高校はもっとかかるー!大学の費用なんて出せるんだろうか」と考えることだって、愛情だったんだなって。
愛情が無かったら、自分以外にお金を1円も使えません。当たり前のように、毎日衣食住を提供すること、当たり前のように(たとえ義務教育だとしても)学校に行けたこと、それは誰かの愛情がないとできないこと。
でも、子どもは、そんな親の愛情に気づくことができません。なぜなら、当たり前のように、生まれたその時から、衣食住が十分にあったから。少し足りないときもあったかもしれない。でも、今まで育ってこれたのは、生きてこれたのは、誰かの愛情があったから。
ばあちゃんは、それを教えようと
「お母さんは〇〇(私)のことを思って、買ってくれたんだね」と、繰り返し言っていたのかもしれません。
愛情は、深さではない。
愛情は、大きさでもない。
愛情は受け取った量でもない。
愛情は、目に見えなくていい。
愛情は、当たり前の中にある。
ばぁちゃんがおしえてくれたこと。
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