見出し画像

音楽と人生

歌うことに目覚めたのは、チェッカーズだ
二つ下の弟が買った「ジュリアに傷心」のシングルレコード
自分は人生で三度くらい神に祈ったことがあるけれどその一番目
ああ神様、どうかフミヤみたいに僕も歌えますように!
のちのち分かったのはその夢はそんなに叶ってなかったことなかったということ

兄貴やお姉ちゃんのいる同級生から
最新のいけている音楽情報がウイルスが伝染するみたいにダビングしたテープ
バンドブームというムーブメントがきて
ランキングからアイドルや歌謡曲を追い出した
ブルーハーツ、レピッシュ、BUCK-TICK、筋肉少女隊、ゴーバンズetc
ようやく世界が変わり始めるのだなと自分は鳥取県倉吉市で感じていた
同級生とラフィンノーズとボウイのコピーバンドをしてた
喫茶店の地下にある、スタジオというかドラムのある押入れみたいな場所が一時間500円で借りれた
宝島を読み、DOLLを読み、バンドやろうぜの地域「東京」にメンバー募集を出したりしていた

パンク、革命起こす
G、B、Dr募集

みたいなw

高校デビューを果たし、フツーに考えれば順風満帆な学校生活、傍目には多分リア充であったが
いま東京で起きている革命的な事、バンドブーム この世界が変わりかけている運動にかかわりたいという想いを留めることが出来ず高校を中退し、上京した
「バンドやろうぜ」で知り合った一つ上のGとBの部屋に居候して
一回スタジオに入ったかな
俺の声はかわいすぎて、パンクに合わなかった
確か市川にスタークラブのライブも見に行った
客が他の客にぶつかるように踊ってたり、密集してるのがいやだなと思った
日曜はラバーソウルをはいて一人でホコテンに行く
歩道橋の上からみんなを眺める
はやく俺もあのなかに入りたいのだけれど
竹下通りでメンバー募集のチラシを配る
20000Vやアンティノックに酔っぱらってたまにシンナーも吸って出かける
大体の人がお目当てのバンドの時だけ踊る
それに抵抗して一人で全部のバンドで踊ったりした 
無理やりにだ
ライブが終わり、それぞれのバンドはそれぞれの客と打ち上げに行く
俺は1人で家に帰る

パンク対メタルの抗争とか
知り合いの女の子がハードコアパンクバンドの男に犯されたとか
なんてか、
パンクってこんなんだっけ
そいで、そこに溶け込めない俺。

ライブハウスであははともててナオンとしけこんでハイ楽しかったです
じゃなくて
どうしたら社会が変わるのかということと自分は連動して考えていたので
Wライヒ、Eフロム、新右翼とか、小さな政治団体の人と話したり
日比谷野音ライブ後に国会議事堂を包囲する作戦とかをノートに書いてた
この頃部屋で一人で聴いてよく泣いてたのは

アンノウンソルジャーズ/スタークラブ
ソリッドフィスト/スタークラブ
街/ブルーハーツ
キスミーデッドリィ/ジェネレーションX
オレたち/COBRA
DEADBOY
Bonzo~/ラモーンズ
とか。この頃の土方は割と儲かっていたのでタワレコとかでよくCDは買っていたのだ

何度か帰郷と上京を繰り返した
ホモに狙われるような甘ちゃんであった
かわいい子であった 自分は
みき君は朝まで一緒にいても心配ないわwと女子に言われるような少年だった
たくさん雨の降る日は近所の歩道橋に歌いにいってた
大声をだしてもいいからだ
それほど歌いたかった


それまでフォークギターはしみったれたダサいものだと思っていたが
当時住んでいた雑司ヶ谷のアパートからほど近い池袋の路上で歌いだした
これも、一人で全部のバンドで踊ったりしたみたいに 無理やりにやりだした
この頃は頭の中で「逃げるのか?」という自分を追い詰めてくる声に対して強がる、という行動が多かったと思う
いくつかのオリジナルにRCサクセションとか和製ブルース的なものとか
のちに、アパートの退去で池袋の路上で暮らしていた時は
歌だけで生活していてた
あまった小銭は銀行に放り込んだ
つまりこの頃は毎日銀行に貯金をしていたのだ

二カ月弱を路上で暮らした後、母に無心した金で東中野に部屋を借り
新宿の路上に歌いに行くようになった
ここで人生はじめての仲間たちを俺は見つけたかもしれない
(この頃の連れは今もかなり繋がっている かなり死んだがw)
ギターを持って新宿にいけば誰かいた
そして岐阜屋で飲んだ
うちはいえに帰りたくない奴らのたまり場になった
昼は中野中央図書館で勉強し
夜は新宿に歌いに行く
ブルースや、すぐにCDをコレクションしたルイ・アームストロング、ジャズ、ネーネーズ、沖縄民謡
中野中央図書館には随分お世話になった
この頃、鋲付き革ジャンを捨てた
今思うと捨てなくてもよいと思うが。
新宿の路上では最高で一日に九万稼いだ
もうほとんど働いてなかった。

新宿大ガードにて



つきあった彼女と同棲するようになり
俺は路上に行かなくなった
この頃ワープロに出会い、
自己の世界に没頭することや、自分の書いた言葉が印刷される歓びを知った
どしゃぶりの雨の日にベートーヴェンを大音量で流したりする悪い遊びも

三度目の?帰郷後
パソコンを買い、どはまりした ウインドウズ98のころ
ひきこもりという状態になった
これからはMP3というものが主流になる!とインターネットを通じて知り合ったチャット友達に言われた
この頃の俺はもっとも音楽から遠のいていた
オンラインゲームに没頭していた
苦しかった
東京で歌っていた頃、スカウトしてくれた音楽事務所に連絡をとる
いまは音楽事業を行っておりません
あの時は自分の知らない世界に連れていかれると思って逃げた

オンラインゲームの財産を現金に換え、手持ち25000円だけで四度目の上京
ここから何故か詩の世界で活動してしまうのだが
渋谷アピアレギュラーですぐに友川かずきさんとやらせてくれたり
高円寺無力無善寺では詩も歌も両方やったが
対バンの弾き語りを黙っておとなしく30分聴くというのは苦行だった
「俺はフォークソングが好きなわけじゃない」というのが頭の隅にずっとあったと思う
だがじゃあどうしたらよいのか、と。

パンクはほぼ聞かなくなっていた
まあ俺は「歌」が好きなんだし、ジャンルというか
ようは震わせてくれるものなら何でもいいわけで

高校をやめて上京以後、リアルタイムでほぼ音楽を追っていなかった
だからグランジなんかを今聴いててかっこいいなあ!と新鮮だったりする
例えば自分の好きな曲ベスト5をあげると

GOD/ジョンレノン
Creep/Radio Head
第九/ベートーヴェン
ALL OF ME/ルイ・アームストロング
Desafinado (ボサノヴァのスタンダード)
とかだったりする

なんどかユニットくらいのものは組みかけたり組んだことも有ったが
自分のこだわり、認知が何か足りないのだろう
長く続くことができなかった
自分の捨てたくない、ここは絶対こうだ!というものもやっぱりある

コロナ禍で何度もスタジオに入り
配信とアルバム500枚製作までこぎつけたバンド「割り勘」
MVは友達の監督と喧嘩別れしておじゃんになり
デビューライブも寸前で潰れた
けれどこうしてCDになって手に触れられることは嬉しい
Drのイシダ君はいまでもたまに音楽に関してのラインをくれる

割り勘 ミニアルバムダイジェスト


その後に「ゆにこーんゆにおん」というユニットをやった
自分がメインを張らない方がいいのではないかという想いもあった

ゆにこーんゆにおん



なんかすごく長い文章になった
色々はしょっているし
何が書きたかったのか分からなくなったが
他人とやれなかった俺が、50歳になって他人とやれるようになってる
何がどうしてなのかはわからない
いまやってるスカイリムというゲームでこういう言葉がある

そういう声や呼吸でありたい
腹式呼吸とかじゃなく全身毛穴式


いまバンド「ずり」と
山本恭子+馬野ミキという違った風味のバンド、ユニットを組めていることが嬉しい
証明させてほしい ドラゴンボーンの力を















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?