自己肯定感の拾い物
今さらながら、このようにnoteをせっせと更新しているのには実は大した理由はない。
5月いっぱいはどの勤め先も休業中で無職状態なので、今月末まではnoteを毎日更新してみようと思っただけのことである。
そもそもこうした身の上話を綴っているのも、ツイッターのフォロワーが読んでみたいと言ってくれたのと、やはり自分には創作の才能はあまりないようなので自分のことでも書いた方が面白いものになりそうだと思っただけの話だ。
そしてここまで書いてみて、存外この半生がひどいことに気が付いた。
表現としてはなるべくソフトにしているつもりなのだが、それにしたってあんまりな星の下に生まれたように思える。
それに、ここに書いたことはまだまだほんの一部でしかない。
全部を書くのはあまりにも労力がかかるし、中にはもちろん書く気にならないこともある。
いずれにしても一通りを書き出したらそれなりの厚みの本にはなるだろう。
これまでの人生、楽しいことは大いにあったが、思えば一般に幸福や幸運にあたることは少なかったかもしれない。
不運や不遇に慣れてしまって、その中で楽しむ生き方を編み出してしまったので、何となく楽に生きてきたような気がしていたが、いざ文字に起こしてみると楽な要素がさっぱり見当たらない。
むしろ今日まで一度も首を括ろうとしたことがないのも、薬の多量摂取を試みたことがないのも、犯罪行為に走ったことがないのも、何もかも奇跡的な気がしてきた。
実際客観的にご覧いただいている方々の目にどう映っているのかわからないが、もしよければ匿名ツールであるマシュマロにでも簡単な感想を書いて送っていただければ有り難い。
常々自分の感覚が世間一般からズレているようだとは感じているが、何がどのくらいズレているのかは、なかなか確かめる機会がないのである。
何もこのnoteは不運や不幸を書くためのものではないのだが、身の上を語ろうと思うと大体不遇な要素がついてまわるので、良いところがかすんでしまう。
ツイッターやSpoonの音声配信を合わせてチェックしてくれている方がいるとしたら、多重人格かなりすましを疑われるのではないかと少し心配している。
もちろんすべて私本人が書いたりしゃべったりしているし、演技をしているつもりもない。音声配信に関しては多少言葉選びには気を遣っているが、ツイッターではおおむね素である。
何より、私の周りには常に私よりもはるかに苦労している人々がいたので、彼らに比べれば私の人生などのんきなものなのだ。それは事実なのだが、そうした比較をせずに考えてみると、私の人生も大概である。
やはり、身だしなみに気を配り、笑顔を心がけ、人に礼節をもって接することを意識して生きているだけで褒められてもよいような気がする。
たとえ食い扶持を稼ぐことができていなくても、だ。
やや方向性がおかしいが、ここまでのnoteを書くことで自己肯定感がいくらか得られたように思われるので、思わぬ収穫を得た気分である。