自分に気を遣うということ

2018年に「自分の機嫌は自分で取る」という言葉がツイッターで話題になった。
その内容については大いにもっともだと思ったのだが、今の心情としては「自分に気を遣う」と言った方が自分にはしっくりくるような気がしている。

これはひとつのライフハックであり信条でもあるのだが、「自分を嫌な気持ちにさせない」ということを常々心がけている。

もちろん他人に不快を与えないことも気にかけてはいるのだが、他人の快不快の基準は未知なので、それを気にしすぎると何もできなくなってしまう。

それよりも私が機嫌良く元気でいる方が、周囲としても迷惑を被る確率が下がって良いのではないか、と都合良く考えているわけだ。

何より、自分というものは生きている限り縁の切りようがない。
二十四時間常にともにいるのが自分という人間だ。
その自分を嫌いでいるというのは実に苦痛なことで、それこそ生きる気も失せかねない。

自分を嫌いにならずに済むように、自分が嫌なことはしない、自分が嫌な気持ちにならずに済むように気を遣うということを、いつの頃からか何事につけ基準にするようになった。

オシャレだのファッションだのという言葉にはとんと疎いが、自分の外見に気を配るのは、もっぱら鏡を見たときに不快になりたくないからである。

外見がそれなりであれば、不快にもならないし、人前に出るのに不安にもならずに済む。おそらく相手も嫌な思いをせずに済むだろう。

表情も同じことで、鏡を見たときに不機嫌そうな顔があっていい気分にはならない。顔をしかめても美しいのはごく一握りの美形だけだ。
普通の人間は笑っているのが一番見られる。

ちなみに笑う気力もないようなときはさっさと帰って食べて寝るべきである。そうでなければ、いずれ体か心かその両方を壊すのは目に見えている。
(すでにどちらも経験済である)

外見というのはもちろん顔ばかりではない。
体型もそうだし姿勢もそうだ。

年齢的に、気を抜くとすぐに体型が崩れて鏡を見る度に暗澹たる気持ちになるということを悟ったので、多少なりストレッチや筋トレをして自分が許容できる範囲を維持するようにしている。

姿勢も普段自分では見ないようでいて、存外出先でガラスや何かに映るものだ。
そういうときにいかにもだらしない、姿勢の悪い人間が映っていると普通に気分が落ち込んでしまう。

また、日常の大抵の出来事は、受け取り方次第でどうとでもなる。
天気が悪いとか、日用品を買い忘れたとか、迷惑な人に遭遇したとか、一過性の不運はツイッターのネタにでもするに限る。
そんなことでいちいち自分を不快にさせていては身が持たない。

人によるのだろうと思うが、「ツイてない」だとか「最悪」だとか「嫌い」だとか、そういう言葉を感情的に発すると、余計に嫌な感情が増してしまう。
言葉にすることで発散できる人もいるらしいが、起きた事象そのものよりも言葉によるダメージの方が時には深刻だ。

牛乳を買うためにスーパーに行ったのに肝心の牛乳が売り切れていたなら、「わざわざ来たのに無駄足だった」と呟くよりも「やばい、知らない間に空前の牛乳ブームが来てたしビッグウェーブに乗り遅れた」ぐらいの言語化をした方が楽しいし嫌な気分にならない。

発言にしろ行動にしろ、うっかりやらかしてしまうことは多々あるが、多少なり考える猶予があるなら、とにかく基準は「後悔しないこと」である。

後悔というものは本当に質が悪い。済んでしまったことなのにいつまでも人の首を絞めるし、足枷にもなる。

自分で考え、覚悟し、決断したことに関して後悔することはめったにない。考える暇がなかったり、人に流されたりすると、後から悔いる確率が高くなる。
特に後者では、その責任を他人に押しつけたくなるのでいっそう泥沼である。

自分が嫌な思いをする上に、そういう自分に対して嫌悪感を抱くというのは最悪のパターンだ。

単純に自分に不快を与えないこと、自分を嫌いにならない言動を心がけることを日々続けていれば、余計なストレスを抱えずに済む──ということに気付くまで30年ばかりかかった。

そして気付いたおかげでかろうじて生き延びている。
日々ストレスに苛まれてなお生きるような体力も気力も、とうに尽きてしまったというのが、今の率直な感想である。

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三木
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