中野サンプラザの閉館と「爆風スランプ」
みけ子が20代前半の音楽プロモーター会社に勤めていた頃のこと。洋楽ロックが大好きで頭の中をハックされていたような日々を過ごした後で、そこに転職したのだったが。今考えると「好き」と「仕事」をごっちゃにして考えたらダメだったのかもしれない、と思ったりもする。
でも、中学の頃からどっぷり好きだった洋楽ロック熱は、その会社に入った頃にはだいぶ落ち着いて来ていた。もう十分聴いたしちょっとは距離をおいた立場で音楽に接することができるようになっていたから、コンサート会場に詰めかける人たちのことも多少は「自分もそんな頃があったよね」みたいな気持ちで見ることもできていたかと思う。(ホントか?)
その頃(1980年代初頭)は、東京のコンサートホールの中でも、ポピュラー音楽の分野では中野サンプラザが知名度もホールとしての人気もピカイチの評判だったかと思う。日本武道館の次くらいの感じだったかも。みけ子自身は行ったことはなかったけど。
ちょうどこの中野サンプラザが音楽ホールとして名を轟かせていた頃、日本のロックバンドで「爆風スランプ」というバンドがとんでもないパフォーマンスをするというので、ロックファンの評判になっていた。
その爆風スランプのヴォーカリストである「サンプラザ中野」(現「サンプラザ中野くん」)は、スキンヘッドにサングラスという出立ちで、当時は「やっぱりロックなんてやるヤツは見た目からフツーとは違うよな」という風貌だった。
その破天荒なパフォーマンスで話題の爆風スランプのコンサートを初めて(かな?)仙台でやる時、みけ子が勤めていたKョードー東北がコンサートの主催会社になっていた。自分は実は日本のロックシーンはそれほど詳しくはなく、爆風スランプっていう常軌を逸した(笑)パフォーマンスをするバンドがある、という認識しかなかった。
1980年代初頭、今思うとオフィスで使う通信機器は電話だけ。当然まだ携帯電話も登場していなかった。現場と会社との連絡手段は公衆電話を使う他なくて、それではあまりにも不便だと、少し後になって社員の一人が講習を受けて免許を取り、無線通信の機器を導入した覚えがある。あまりにも昔のビックリな事実だ。
アーティストが来仙して公演する時は、来仙時の交通手段の確保や宿泊場所の予約などの仕事があった。当時、そのようなアーティストが宿泊するホテルは仙台では結構格式が高い「ホテル仙台プラザ」がよく使われていたと思う。(現在はすでに廃業。今はその場所にNHK仙台放送局がある)爆風スランプの宿泊もいつもの「ホテル仙台プラザ」が使われたのかな?それとも別なホテルだったのかも知れないが、宿泊するホテルには当然事前に宿泊者名を知らせておく必要がある。
今ならば予約は予約サイトやホテルのHPを利用すればモノの数分で手続きは済むが、当時はそんなシステムなどない。FAXさえも当時のKョードー東北には導入されていなかった。当然、予約者名は一人ひとり電話で、口頭で伝えることになる。
その爆風スランプ。宿泊者名のメンバーの名前も当然電話で伝えるしかなく、サンプラザ中野に始まり
ハヒフヘほーじん
ファンキー末吉
おまけにダメ押しのような
パッパラパー河合
って何だよ〜🤣🤣🤣
*のちにパッパラー河合
当時のKョードー東北のあまり広くないオフィスで、他の社員が電話でホテルの予約に電話を入れていたのだが、メンバーの名前を言うのに笑いを噛み殺しながら電話口で話していたのを思い出す。ぎゃはは〜🤣🤣🤣
大ヒット曲「Runner」がリリースされたのは、その爆風スランプのコンサートをKョードー東北が初実施しただいぶ後だったと思う。「色物バンド」のような見られ方をしていた爆風スランプがこんな真面目な心に刺さる曲を作るなんて、と思ったことは記憶にあるよ。改めて聴くとまた本当にいい曲なんだよね。
中野サンプラザの閉館に関するニュースが流れてきて、爆風スランプと当時のお粗末な通信事情を思い出したみけ子でした(^◇^;)
↓素朴な乳牛の木工細工。首につけたベルが軽やかな良い音です♬