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1年で一番寒いこの季節。入院先の病院から看取りの病院に母を転院させたことを思い出した

6年ほど前の今頃のこと。年末から尿路感染で入院していた母が、退院間際に脳梗塞の症状を発症した。母は62歳の時に左半身麻痺の脳梗塞を発症し、その時すでに25年ほども経っていて、80歳代後半だったかと思う。

この時は入院中の病院で治療を受けていて回復し、退院の日程が決まったところだった。退院といっても元の特養ホームに戻るだけだったのだが、その直前の脳梗塞の発症だった。これまでは普通に動かせていた右半身に症状が出る脳梗塞。つまりは全身に麻痺が出てしまった状態だ。手術や回復はおろか経口での栄養摂取も無理、という医師からの説明だった。

この状態の患者には、

胃瘻(いろう/栄養摂取のために胃につながる穴を開けて、そこから必要な栄養を流し込む)か、または高カロリー輸液を点滴するために鎖骨あたりに点滴口を常設する

……という、患者を死なせないための、生き延びさせる処置を施すのが一般的なのだというが、娘である自分は医者から説明を受けた後にどちらの処置もしないことを伝えた。これまで人生の1/3もの期間の長い要介護状態、これ以上命を長らえる処置を施してもらう気持ちは、娘の私には無かった。

元々、食べることが大好きで美味しいものに目がない母だった。何かの折に「病気で口から食べられなくなったらもう死んだほうが良い」と何度か言っていたのを耳にしている。その言葉を医師にも伝え、積極的な治療や処置をせずに看取りの病院に転院させる気持ちを固めた。そのことを遠くに住む兄にも話し、転院の手続きと寝たままで搬送できる介護タクシーの手配もして、市内にある別な病院に転院することになった。それが6年前の今頃だったと思う。

脳梗塞で話すことが出来なくなった母に、なぜ転院するのか、どこの病院に越すのか、そういったことは私は一切説明しなかった。本当はきちんと本人には話すべきだったんだと思う。だけど話しても納得してもらえるとは思わなかった。患者本人のその時の意思優先が第一だったのかもしれないが、私はそういった説明をどうしてもする気になれなかった。母本人は体の自由が効かなくなってしまっていたのだ。周囲の決定に従うしかないのは明らかだ。私は長男である兄とも電話で相談し、転院先の病院の担当医師と相談しながら介護タクシーでの搬送日時を決めた。

その「看取り」のための病院は、JR仙台駅からも比較的近い場所で、周囲にはオフィスやマンションも多く立ち並ぶ地域だった。そして病院のすぐ向かいには、大きなお寺さんが💦  もうなんでも揃っている便利な場所だ。

古い3階建てのビルの1階はごく普通の外来も受け付ける内科病院。その2階以上が入院病床になっていた。看取りのための病院で、積極的な治療はしない。入院患者は介護的なケアを受けるだけだ。当然、入院患者どうしの会話もなく、ほぼ満床なのに病院全体が気味が悪いくらい静かだった。

大きくて設備も最新な病院から、満床なのに静まり返った病院への転院。入院している人は一様に回復の見込みのない終末期の患者ばかりだ。タオル等の洗濯物の取り替えに週に1度は病院通いはしたが、なんだかそこに立ち入っただけで気を吸い取られるような、妙な重い疲労感を感じる。短時間立ち寄るだけでも気が滅入る。

孫であるウチの子どもたち2人にも、見舞いに行くように勧める気になれなかった。これまで何度も介護施設や病院には見舞いに来ていた。孫たちの顔を見せれば母は少しは喜んだかもしれないが、自分はそこまでする気持ちになんだかなれなかったのだ。

見舞いに来たのは、東京から駆けつけた兄が2度ほど、そして母の姉妹たちが見舞ったという。それだけ見舞いの人が来れば十分じゃないか、と母のことをずっと好きになれなかった長女である私は思っていた。

その後入院先の看取りの病院で母が亡くなったのは、3ヶ月後の4月下旬ことだったと思う。看取りの病院での3ヶ月、ベッドで介護を受けながら母は何を思っていたか。もう自分には分からないし知りたいとも思わない。最近ようやく、亡くなった後も消えなかった母に対する嫌悪の気持ちが薄らいで来ているのは感じる。

あれから6年。こうやって良いことも良くない事も、時が過ぎて全てを流して行く。



↓青味を帯びた、ニュアンスのあるガラスの蓋付きのボトルです。デキャンタとして使うのもGood。その場に置いてあるだけで素敵な空間を演出してくれます。


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櫻井みけ子久美
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