自分はいい人でも賢い人でもない。そんな自分を生きて行く
まぁ、このnoteには何度も書いていることなんだけどさ。
みけ子は特にいい人でも特別賢い人でもない訳で。むしろ色々と忘れっぽくて、抜けていて時間管理が出来なくて数字が極度に苦手。自分中心の都合の良い考え方しかできない、視野も狭い人。
自分でも十分自覚している。そんな自分が嫌だから、出来るだけ嫌な部分は直そうとしてきたとは思うんだよね。
若い頃、母みけから言われたことがある。「この子は自分にも厳しいが他人にも厳しい」と。
あ〜全くそうだね。その通りだと思った。それの何が間違っているのかと思っていたよ。
ある時、学校の先生が「自分には厳しく、他人には優しく」と発言しているのを聞き「えっ?そうなの?それが良いの?」と思った。そんくらい、自分の感覚は他の一般の人とは「ずれて」いた。
自分の母親(母みけ)は結構厳しい人だった。学はないけど、賢くて知恵の回る人だった。そんな母みけから自分はかなり厳しく躾けられたと思う。今思い返せば、その時の厳しさがあったから、自分はここまで来れたし現在の自分を肯定できる状態になれたと思うのよ。
ちなみに、そんな厳しさが時に感情的になって、怒りを爆発させるように怒るキツイ母親がずっと嫌いだった。今現在も母親のことは好きになれない。亡くなって何年も経っているのに、だ。
経験が足りないと思えば、経験を出来るだけ積もうと思う。知識が足りなければ本や講座で学ぼうと思う。「この人すごいな」と思う人がいればその人の良いところを真似しようと思う。常にそういう姿勢だけは持ち続けて来たと思うよ。
だからさ、自分にとことん甘くて怠けているように見える人がみけ子は嫌いだ。努力しない、向上心が見られない人って何なの〜?と思うのね。そりゃ、その人それぞれの事情はあるでしょうよ。でもね、だらだらしててシャキッとしているところがない、やる気が微塵も感じられない人って凄くイヤなんだよね。
しかし自分も子ども2人の親になり60歳を過ぎ、それぞれの人がそれぞれの持って生まれた性格や生育歴があってどうにもならない事情もある、ということは多少は理解出来るようになって来た。
例え今できないことでも、それを意識してもっとできるようになろうと努力する気持ちが大事な訳で。今現在できていない事はそんなに重要なこととは思わない。前向きな気持ちや姿勢が何より大切だと思っている。
卑近なことを例にとれば、うちにいる長男のこと。4年かかって休みがちな高校をやっと卒業し、現在20歳だ。20歳になる青年が就職も進学もせず、だらだらと親の仕事をアルバイト的に手伝っているだけ。何もない日の昼間は寝ている、外にもあまり出ない。お前の人生それで良いのか?
以前はその状態の長男にイライラのし通しだった。体調が悪いと言い学校を休む。各種病院に行ってさまざまな検査も受けた。薬を処方してもらったりプロテインを飲んだりサプリメントで不足するビタミン類を補ったりということも続けた。でも結局、決め手になるような病気も原因も分からなかった。
ようやく高校は卒業し、現在は私の民泊清掃の助手として仕事を担ってくれている。一人前では全くないけれど、ひとまず役に立ってはいる。働くことを通じて、経験を積みゆっくりで良いから自分に自信をつけ、成長してほしいと思う。
こういう「通常とは違う時間軸で生きている人」を以前は自分も受け入れられなかったと思うのだ。だけど実際、これまで有効と思われていた学校の制度や社会システムではうまく嵌まらない人っているのだ。
一見怠け者っぽいけれど、実はその人それぞれの「うつわ」があって、うつわ以上のものを無理やり詰め込もうとすると、その人の器は壊れてしまう。きっと長男はその「うつわ」があまり大きくない。持って生まれた「うつわ」をゆっくり大きくして行くことが成長なのだろう。
みけ子自身もその「うつわ」はかなり狭小だったけれど、自分がこれまで生きてきた経験でそのうつわの大きさを徐々に広げることができたと思う。
あまりに急激にそれぞれの持つ「うつわ」を大きくしようとすると、心の病になったりするんだよね。
その人それぞれの許容量や合っていること、合わないことがある。それを見極める。合わない、ダメだと思うならばその場を離れても仕切り直しをしても良い。重要なのは、少しでも向上心、前向きな気持ちを持ち続ける事だと思うんだよね。
そして結局、自分は死ぬまで「いい人にも賢い人にもなれない」んだと思うわ。
↓漆塗りの菓子器です。扇面を散らした文様に風情を感じます。
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