自己主張する風景ってどうなのか。自分は「レベル低っ❗️」って思うよ
こと、風景に関して言うと、調和するのが一番で自己主張が過剰で目立つのは、美しくないしレベルが低いと思うのだ。あくまで、みけ子の考えだけどね。
毎日目にする、建物や路上の工作物。やたらと強く目立つ色って、下品で見ていると心拍数が上がってくる気分になる。こんな感覚になる眺めって、良い風景とか眺めとは言えないわ。
目立たないと意味のない、野外の造作物がある。例えば道路標識なんか。これ、車を運転する人にとってキチンと目に入らないとダメな物だ。一方通行路なのに、見逃されちゃうとか右折禁止路で曲がったりしたら事故につながるからね。
その、目立たないと意味のない造作物だって、一定の大きさやルールに則ってそこに設置してある物だし、やたらと目立てば良いって事でそこにある訳ではない。必要最小限で最大の効果があるように。そんな配慮がなされながら、その場所に設置してあるのだ。
翻って、個人所有の家やビル、そして野外の看板など。看板はそれでも一定の規制があって、やたらとデカいとかはダメなはずだ。規制内で掲示してあるのだろうが、周囲から余りにも浮きまくっているのは考えものだ。ましてや個人の住宅の外壁の色の選び方。自然の中によく見る色合いの中から選ばれているなら良いが、全く共通性がないトーンの外れた色をいきなり持って来るのってちょっとやめて欲しいな、と思うのだ。
東京で以前よく訪ねた、東京大学本郷キャンパスの近辺のお気に入りの風景があった。文京区の弥生。弥生土器が発見され、弥生時代という名称はこの地に由来するという場所だ。JR根津駅を出て坂道を登ると突き当たるのが、東大の敷地である。古びた石垣の上に欅などの落葉樹類が茂る。一目でその歴史の深さを感じさせる風景が、目にも心にも心地よい。
その坂の突き当たりの、東大の石垣の向かいに位置する二階家があった。昭和の中後期に建てられたらしいその家がある時、外壁塗装で全体が濁りのない水色に塗り替えられたのだ。古い風情の石垣や木々が織りなす風情を全くぶち壊す、酷いカラーリングだった。調和しない浮きまくる色彩。この素晴らしい場所に位置する民家の持ち主は、風景の調和など微塵も考えなかったのだろう。濁りのない水色って色彩だけ見るとキレイだもんね。
最初に見た時は衝撃だったわ。
もう20年近く前の事だから、今現在はどうなっているのかは不明だ。しかしこういう事例は、いくらでも転がっているだろう。自分の家一つの外壁の色がどうだって、世の中への影響など微々たるものだ。確かにそうかも知れないが、昨日まで調和が取れていた場所が色の選び方一つでメチャクチャになってしまう事もある。
心地よい風景や雰囲気とか調和とか。そんな物に特に価値があるとは思わない人も多いだろう。しかし想像してみて欲しい。家の中が自分の好みでない、むしろ嫌いな色の物で溢れていたら。刺激が強く、見た瞬間ギョッとするような色彩で溢れかえっていたら。そんな空間に長く居たら、気持ちが苛立ってこないだろうか。そういった「自分が嫌いで心が平穏でいられないモノや色」ばかりの中で人は平和で温かい気持ちを持ち続けられるのか。まぁ、そんなことを全く感じもしないで一生を過ごす人も、案外多いのだろうけどね。
家の外壁に選んだ色は、周囲の風景に馴染むのか。その家の住民は、一歩家に入れば外壁の色など分からないが、周辺に住む人にとっては毎日目にするものだ。そういった色が人に影響を与えないはずはない。
イベント的に一時的に展示されるアートとかならば、多少話は違ってくるが、日常的に毎日目にするものは、やたらと刺激的な色や造形はごめん被りたい。
自分は見た目の美しさや目に触れるものの心地良さが、やたらと気になってしまう人間だ。自分が醜いと思う色彩やモノばかりが目につく場所だと、気持ちがだんだんささくれ苛立ってくるのが分かる。そんな場所には長く居たくない。さっさと立ち去りたいと思う。
そういう「刺激の強い色彩やモノ」ばかりを何のこだわりもなくチョイスする人とは、基本的に上手くやっていくことが難しいと思っている。神経質かも知れないが、それを感じられるのが自分なのだと思っている。
↓食卓を美しく整えることって、食育にもプラスになると思う。箸置きを日常的に使うと、食べる時の所作がとてもキレイになります。
サポートをいただけるならば、それはそれは大感激です❣️毎日発信を続けることが、自分の基礎トレーニングだと思っています。サポートを励みに発信を続けます💓