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ぎんざものがたり/Previously on Chizuko's way of life#02

*これまでのお話から
拙書「小説特殊慰安施設協会」から引用。


その夜、千鶴子は解雇された話をゲンと小美世にした。
「オレも辞める。」ゲンが言った。
「ダメ、お願い。それだけは止めて!」珍しく千鶴子が強く言った。
「・・でも」
「ダメ。もしゲンちゃんまで私のせいで辞めたら、私は申し訳なくて此処に居られなくなるわ。」
ゲンは黙って下を向いた。
小美世が言った。「・・よかったわね、チヅちゃん。そろそろもう一歩進みなさいというお天トさまのお心よ。ありがたいじゃないか。あの会社のおかげで、チヅちゃんは一歩前に進んだんだし、そして私たちにも会えた。こんなにうれしい事は、そうそうないわよ。 もう一歩進みましょ。あたしたちは、あなたの味方よ。」
千鶴子は黙ったまま、深く頭を下げた。その目からポロポロと涙が卓袱台の上に垂れた。

翌朝一番、千鶴子は事務所へ辞表を出した。
「短い間でしたが、ほんとうにありがとうございました。」
千鶴子は深々と頭を下げた。それに応じて事務所にいた全員が立ち上がって、頭を下げた。その中に唯一席を立たない者がいた。ヘレンである。
2月28日の寒い朝だった。その日は、陛下が午前9時より銀座中央通りを巡幸される予定だった。そのため無数の警官が中央通りに並んでいた。
その中央通りを、千鶴子は4丁目に向かって歩きながら思った。
・・ちょうど5か月まえだ。R.A.A.の玄関の前に、新聞広告を握りしめてモンペ姿で立ったのは。私は、また振出しに戻ってしまった。でも・・モンペ姿じゃない。蓄えもある。振出しに戻ったけど、ゼロじゃない。私は、あの日のように。嫁ぎ先を飛び出してきた時と同じように。私は私らしく生きようと決めたんだ。後悔なんかない。・・それに。
千鶴子は無意識にお腹を撫ぜた。私は一人じゃない。
妊娠していたのだ。
数週間前の検査で知らされていた。・・あのクリスマスの夜だったことは間違いない。もちろんワッツ中尉には言っていない。中尉には自分が既婚者であることも話していない。なのに妊娠したと言えるわけが無い、と千鶴子は思っていた。それにワッツ中尉はカトリックだった。だから、どうなるものでもない。一人で産み、一人で育てる覚悟はしていた。
でも。小美世さんにも妊娠の報告はしていない。・・これから先、仕事は・・そう思うと、千鶴子は松坂屋のOASIS OF GINZAの前で立ち止まってしまった。
どうすればいいんだろう。
その時、後ろから声をかけられた。
『マンディ。ずいぶん待ったぜ。』ワッツ中尉だった。『冷たいよな。マンディ。昨日の夜、お宅の店のボーイがウチの兵士に、口伝えで俺に教えてください!って言ってくれなかったら、俺たちはもう会えなかったぜ。』
ワッツ中尉はジープに寄りかかりながら、ニヤニヤ笑いながら腕組みをしていた。千鶴子は驚きのあまり、何も言えなかった。
『マンディ。乗れよ。連れていきたいところがあるんだ。』
『ど、どこに?』
『君の新しい仕事場さ。さ。乗れよ。』
ワッツ中尉は、ジープの助手席のドアを開けた。
『さ。乗れよ。行くぜ。』

そのジープが向かった先は、半年前に小美世とゲンで出かけた東京宝塚劇場だった。いまはアーニーパイル劇場と名前を替えていた。
接収されたのは、前年の11月。第一回目のショーが1946年2月末から始まっている。伊藤道郎演出の「ファンタジー・ジャポニカ」である。ちょうどそのショーの真っ最中だった。
ワッツ中尉は正面玄関にジープを停めると、千鶴子を連れて総支配人室に上がった。
椅子に座っているのはパーカー中尉と云う神経質そうな白人だった。彼は舐めるように千鶴子を見回した。千鶴子は二の腕が小さく粟立った。
『アンディの紹介なら文句はない。接客係として明日から働いてくれ』パーカー中尉が笑いもせずに言った。
千鶴子は思わず「結城支配人は?」と言いそうになったが、言葉を呑んだ。そして『ありがとうございます』とだけ言って頭を下げた。パーカー中尉は無言だった。

得意満面なワッツ中尉と共に総支配人室を辞すと、千鶴子が言った。
『ちょっとご挨拶していきたいところがあるの。』
ワッツは怪訝な表情をした。『OK。俺は帰る。良いかい?明日、昼に来るよ。ランチしよう。』
『ありがとう・・あ』千鶴子は戸惑いながら言った。
『ん。なんだい?』
『・・なんでもない。じゃ、明日。』やはり千鶴子は妊娠したことを言い出せなかった。
ワッツ中尉と別れて舞台裏に回ると、何人もの知り合いの顔が有った。
ショー開演前の準備で全員が大わらわの時だったが、踊り子たちは、千鶴子を見つけると練習を中断して、千鶴子のところへ集まった。そして「小美世さんとこの!」と皆が口々に言った。
「萬田千鶴子と申します。その節はありがとうございました。この度ご縁があって、明日からですが皆さまのお手伝いをさせていただくことになりました。よろしくお願いします。」
千鶴子が深々と頭を下げると、みんなが歓声をあげた。
「実はいま総支配人室に伺ったのですが、結城さんは?」
「あの蛇男が使ってるのよ。結城総支配人は別室を使ってるの。」踊り子の一人が顔を顰めて言った。
「よかった・・お辞めになったわけではないんですね。」
「今は、ダブル総支配人なの。でも仕切ってるのは、あの蛇男。結城さんは雑務ばかりに回されてるわ。まだお会いしてないの?」
「はい・・まだ。」
「あたし、ご案内するわ。」踊り子の一人が言った。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、千鶴子は舞台の向こうに並ぶ客席を見た。・・明日から。
どんな人生が始まるんだろう。そして・・今夜。私は何て小美世さんとゲンちゃんに話せばいいの?


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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました