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パリ・マルシェ歩き#12/マルシェ・ベルヴィル03

マルシェ・ベルヴィルを見て歩いてるうちに「点心がいいわ!」と言い出した。それでそのまま思い付きでベルヴィル通りにあるプレジデントに入った。
Le Président(120 Rue du Faubourg du Temple,75011 Paris)広東料理の名店。点心がいい。
https://lepresident-paris.fr/
ここは店が大きいから、満員で入れないということはない。ただ料理を載せたゴンドラがなかなか通ってこないことはままある。点心の質はパリ随一だと思う。糯米鶏や蘿蔔糕、蝦餃を突っつきながら嫁さんが言った。
「ベルヴィルとかクロンヌって、どうしてこんなに移民の人ばかりが集まっているの?何か歴史的な理由があるの?」
「西暦1200年ころからベルヴィルの丘は修道院たちの土地だったろ?」
「ええ。聖モーリス修道院Abbaye de Saint-Mauricとサン・マルタン・デ・シャン修道院Abbaye Saint-Martinがあったンでしょ?」
「村は彼らによって守られていた。人々は葡萄を作り農作物を作っていた。平和な500年だった。ところがフランス革命だ。修道院と教会は破壊され、僧侶たちは暴徒に殺され、土地は荒廃した」
「酷い話よね。この前まで敬虔な信者たちだったんでしょ?」
「革命はいつも狂気を伴う。僧侶たちが片っ端に殺された後、18世紀の終わりからベルヴィル地区は無残なほど貧困地帯になってしまったんだ。そして半世紀余りたって産業革命が起きた。産業革命は『労働者』なるモノを産み出した。ヒトムカシ前だったら小作人にさえなれない日雇い農夫たちだ。彼らは時給日給で働く労働者と呼ばれるようになった。その労働者たちがいつの間にかこの地域に集まるようになったんだよ」
「どうして?」
「近くに工場が幾つもあったからだろうな。このあたりは陶器造りが盛んだった。そのことが大きかったのかもしれない。それと僧侶たちが消えた村は日雇い農夫たちの住むところになっていた。その人たちが労働者へ相転移したんだよ。」
「ふうん、同じ人だけど、違う身分になったわけね。ふうん」
「労働者とよばれるようになった人たちは、当初近在の仕事を求めて流れてきた連中が中心だったが、働き場所が拡大化すると、もっと東の方から色々人たちが流れ込んできたんだ。そして20世紀初めにはもうベルヴィル地区は、今のような多国籍コミュニティが集まる場所になっていたんだよ。そして第一次世界大戦だ。東欧のユダヤ人たちが猛烈な迫害を受けた。彼らはベルヴィルに移り住んできたんだ」
「フランス政府は移民を規制しなかったの?日本みたいに」
「フランスの共和主義の本質は、人種や民族・宗教などで人間を絞り込まず、救済を求める人々を暖かく受け入れるという姿勢だ。これは今でも大筋は替わっていない。ちなみにフランスは今、EU最大のモスレムが済む街だよ。フランス在住者6800万人中モスレムは10%近くいるそうだ。600万人前後だという。たとえば日本にいるモスレムは0.1%強だ。2万人から3万人程度と言われてる」
「え~そんなにちがうの」
「ん。そして第二次世界大戦後は、北アフリカの人々東南アジアの人々も流れ込んできた。ベルヴィルは同民族の先住者がいたから、住みやすい環境だったんだろうな」
「どうして、第二次世界大戦後なの?」
「フランスはたしかに戦勝国だが、戦乱の真ん中に有った土地だからね、人も国もボロボロになった。フランス政府は復興の手段として移民政策を取り入れたんだよ。北アフリカ・・特にアルジェリア、モロッコ、チュニジアから安価な労働力を大量に取り込んだ。彼らがベルヴィルに北アフリカ系のコミュニティを作り上げたんだ。
そして東南アジアを植民地化した反動として、ベトナム、カンボジア、ラオスあたりからの大量の難民がフランス国内に流れ込んだんだ。彼らもベルヴィルに移住した。つまり、ベルヴィルにある多国籍な移民コミュニティは、ここ半世紀あたりで出来上がったということだ。僕が初めて出会ったころ80年代はじめはこれほどじゃなかった」
「なるほどね」
「そして文化だ。貧乏なところ、マルチエスニックなところに、アーティストやミュージシャンが魅了される。
おかげで多くのアートギャラリーやスタジオが20世紀末から立ち上がって、ベルヴィルは食の文化だけではなく、アートと観光の街に替わりつつある・・ということだろう」
ふうん」と嫁さん。いまひとつ納得いかない感じだった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました