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小説特殊慰安施設協会#38/ペニシリンの奇跡

その太平洋戦における米軍公衆衛生局PH&Wの責任者はクロフォード・サムズ大佐だった。

彼は即断即決の人だ。患者の治癒のためには何も迷いは見せない。南洋戦線で突然増加し始めた性病罹患兵士にも、サムズ大佐は現地でペニシリンを多用した。ペニシリンは、細菌性の病気に無類の効果を持つ。淋病・梅毒にも絶大な効き目が有る。サムズ大佐は躊躇無くペニシリンを患者に投与している。

しかしそのサムズ大佐の行動力を以ってしても兵士の罹患率は、じわじわと上がり続けていた。。とくにフィリピン上陸を経て沖縄上陸後は、他の細菌性の病気ではなく性病患者が急激に増えていった。この急激に増えた性病患者について、米軍公衆衛生局は月単位で報告書を本国に提出している。その報告書を見ると、沖縄上陸直前の米兵の性病罹患率は0.057%だったものが日本上陸後の9月の調査では4.18%。10月には5.61%に跳ね上がっている。

では。どのくらいの女性が全国で娼妓として米兵の相手をしたのか。日本側には公式な記録も調査もない。しかしその様子をアメリカ側の新聞が伝えている。

ニューヨークタイムズが、先ず一報として米兵向けのビヤホールの開店を写真入で10月1日に紹介している。10月14日には、日本人ダンサーと踊る米兵の写真も掲載されている。その記事は、日本人は5000人の女性を米兵用に雇用し、ダンサーやゲイシャとして兵士たちに宛がっているとある。アメリカ市民はこの記事を見て眉を顰めた。

このR.A.A.の慰安所だが、同協会で働いていた樀木精一氏が著書「秘録進駐軍慰安作戦」の中で触れている。各慰安所で働いた娼妓の員数について以下のように書いている。

成増慰安所/50名。大森小町園/40名。大森見晴し/44名。大森やなぎ/20名。大森波満川/54名。悟空林/45名。乙女/22名。楽々/20名。三多摩調布園/54名。福生/57名。三鷹ニューキャッスル/100名。楽々ハウス/65名。立川パラタライス/14名。立川小町/10名。三軒茶屋/随時派遣。

彼によると、総数は545名。罹患のため、店に出られなくなった娼妓はおそらくその5倍から10倍程度とみて、総数3000~5000名程度というところだろう。前掲ニューヨークタイムズの数値は、かなり実態に近い。

いうまでもなく、これはR.A.A.だけの数字である。全国レベルで如何ほどの女性が米兵向け慰安婦として傅いたのかは全く記録に残っていない。

当初、米軍は罹患した兵士だけにペニシリンを投与していた。

しかし性病対策は、兵士だけにペニシリンを投与するだけでは収まらない。治癒すれば兵士は、また慰安所へ出かけて感染して帰ってくるからだ。感染先と思われる施設をオフリミットにしても、このネズミごっこは止まらなかった。たしかに各施設は娼妓を一新し「クリーンな状態に戻す」のだが、すぐさま女たちは米兵から病気を伝染され罹患してしまうのだ。これをオフリミットにしても罹患の悪循環は止まらなかった。

苦渋の策としてサムズ大佐はペニシリンを、浅草の吉原病院を中心にして配布する決断をした。娼妓側からも性病患者を一掃しようとしたのだ。その恩恵を受けたのは主にR.A.A.で働く女性だった。しかし、吉原病院は他の遊興の娼妓も私娼も利用していたので、ペニシリンによる恩恵は相当数の女性が受けることになった。

しかしこのサムズ大佐の決断について、10月に入ると米国内の新聞が挙って非難キャンペーンを起こした。それは米軍の保有していたペニシリンの半分が、日本の売春婦に投与されていることが発覚したからだ。

アメリカは清教徒の国である。性の乱脈には極めて厳しい。大事な我が子に卑しい病を伝染させた売春婦に、米国内で手に入れることができない高価な、そして貴重な薬を野放図にバラ撒いているなんて!!軍は何を考えているのだ!!と、すべての米国民が激怒した。

米国内新聞は「日本人は売春によって米軍を篭絡しようとしている」「米軍は戦争に勝ったが、性病で日本国に負けた」と書き殴った。

例えば、シカゴ・サン紙のマーク・ゲインだが、彼は以下のように書いている。

「アメリカ合衆国の軍隊を腐敗させようとする日本側の抜かりのない、よく組織された、そして充分な資金で賄われた謀略の物語である。その武器は酒・女・歓待であり、その目的は、占領軍の士気と目的を破壊することである。」

酒・女・歓待は、日本人(アジア人)が常套とする篭絡法だ。相手方に阿り、摺り寄り、接待で相手を陥落させる。そんな日本人のやり方に、彼ら米国人記者は鳥肌立つほど悪寒を感じたのかもしれない。「フェアでない」という言葉は、アメリカ人がよく使う言葉だ。

そうした米国内の世論と、占領地・日本における実態の板挟みに苦慮したサムズ大佐は、マッカーサーを通してロックフェラー財団に日本国内でペニシリンの生産が可能かどうか諮問した。彼は一時帰国し、ロックフェラー財団を訪ねている。ジョン・Dは極めて明晰な男である。サムズ大佐の真摯な態度に、すぐさま応えた。そして戦前に浅からぬ関係にあった明治製菓にペニシリン製造法を開示し、日本製のペニシリンを製造できるように手配してくれた。多数の技術者がロックフェラー財団から明治製菓へ送り込まれたのだ。こうして明治製菓製のペニシリンは1946年春から製造が開始されている。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました