小説特殊慰安施設協会#29/銀座千疋屋キャバレー
終戦からひと月経った1945年9月17日、月曜日。R.A.A.事務所の斜め前にある千疋屋ビルの2階に「千疋屋キャバレー」がオープンした。突貫工事だった。それでも何とか予定通りオープンしたのは、キャバレー部の悲願達成の強い意思があったからだ。エビスヤ・ビアホール開店の日に林譲が語った熱い思いがスタッフ全員の魂を衝き動かしていたのだ。あれから5日間、それこそ不眠不休で開店までキャバレー部全員が突き走った。
築地のダンサー寮。交詢社に置いたダンス教室と英会話教室。寮での予習は千鶴子が担当した。調達部は衣食全てを揃えた。ダンサーは総員150名。予定の200名には達しなかったが充分な員数である。ボーイは30名。雑務のウェイトレスは20名。林譲の指示で雑務担当の女性は中年/初老の戦争寡婦を中心に雇用した。ボーイとウェイトレスには制服が支給された。
「全員に専用ロッカーを用意してください」という林譲の指示で、ダンスホール上の階に従業員の控え室が大きく設備されていた。200のロッカーが並び、壁には化粧台が幾つも並べられ、休憩用の椅子テーブルを置かれていた。「ホールで晴れがましく仕事できるよう、バックヤードは居心地よい空間を作ってください。」林譲は言った。商社を辞した後に始めた喫茶店時代に得た教訓だったのかもしれない。彼は、働く者がどれだけ快適かを常に気にする姿勢で仕事に臨んでいた。「だれも脱落者を出さない」という意思の表れだろう。
顧客である米兵へのPRはワッツ中尉を通して、万全だった。
オープンは午後4時から。ワッツ中尉が2名のMPを伴って来店したのは3時ごろ。千鶴子と山崎が対応に出た。林譲はいなかった。翌日、公衆衛生局(PH&W)が横浜から日比谷第一生命ビルへ移動するので、その前の最終MTGをするという通達が届いていたのだ。林譲は高松慰安部長、宮沢理事長と共にそちらのほうへ出向いていた。相変わらずGHQへの対応は全て林譲が対応していた。
「終わり次第戻ります」と言って事務所を出て行ったが、まだ戻って来ていなかった。
ワッツ中尉は、林譲が居ないことには大して注意を払わなかった。それよりもダンサー姿の千鶴子に、ワッツ中尉は終始ご満悦だった。
「今日は正々堂々とマンディにダンスの申し込みをできるな。最高だぜ。」彼は言った。千鶴子は恥ずかしそうに微笑むだけだった。たしかに他の女の子と共に、交詢社の中に急ごしらえしたダンス教室で、基礎の基礎は習ったが、本番は今日が初めてだった。その最初の相手がワッツ中尉なのは有り難いと、内心千鶴子は思っていた。ステップを間違えても彼なら笑って許してくれる。
ダンサーたちの大半は既にボールにいた。殆どの子が、だれか他の女の子と組んでダンスのステップを練習していた。その間をボーイとウェイトレスが独楽鼠のように走り回っていた。適当な緊張はあったが、用意は万端という安心が全員にあった
「時間だ。開けるぞ」時計を見ていた山崎が大きな声で言った。
「はい!」という声が全員から上がった。
林部長はいない。でもその心意気は全員にある。山崎はそう思った。
入り口のドアが開けられると、一斉にドヤドヤと米兵たちが階段を昇ってきた。そして入り口近くのチケット販売コーナーで綴りになっているダンス券を買うと、ホールへ小躍りしながら入った。ダンサーたちは笑って、米兵を迎えた。「おおお!」「すげえな!」嬌声が米兵の間から上がった。しかしMPの目があるのでハメは外さない。
山崎が一番恐れた瞬間である。それがあっけなくトラブル無しで始まったことで、山崎は膝が砕けそうになった。小町園の悪夢は・・再来しなかった。MPの力か。ふとワッツ中尉を見ると、ワッツが山崎に小さくウィンクした。山崎は思わず深く頭を下げた。
米兵たちは、近くにいるダンサーにチケットの束を差のまま渡す。女の子はその綴りを一枚破って受け取ると、にこやかに腕を米兵へ預けた。
バンドは、グレンミラーを演奏していた。その演奏はまるで戦禍の臭いが欠片もしない素晴らしいものだった。自由への謳歌が溢れていた。
その日、チケットは217枚売れた。米兵たちは、踊りつかれるとコーナーにあるスタンドでビールを買い、これをテーブルに座って飲んだ。ダンサーがテーブルに座ることは許されていない。誘われても彼女たちは笑って断った。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました