LAST FRIGHT OF SAIGON#19/長いクロージングテロップ
バーガーインは、六本木を飯倉の方へ歩くと、細いT字路の角にある。そのT字路は少し坂で、すぐに崖になってしまう。バーガーインは朝までやってる。だから遅い時間はバンドマンの溜まり場になっていた。仕事帰りに此処によって食事をして、だんだん集まってくる仲間たちと仕事の情報を交換して、一日を終える。
僕も殆んど毎夜、此処にタムロしていた。別に仕事が欲しかったわけじゃない。還る場所が・・帰りたい場所がなかっただけだ。だから毎日、深夜近くなるとバーガーインへ顔を出して、バンドマン達の話を聞いていた。
学校には戻った。ウタパオの基地に有ったDECのPDPを使った思考実験の続きをやりたくて、大根の巨大な校内・・15号棟にある日電の汎用機を弄くりに、学校には通っていた。"ついでに"授業も受けた。留年扱いになっていたから、どの科目も教授の顔は知っていたが、同級生たちは一人も知らなかった。ベトナムでエトランジェだったように、日本でも教室ではエトランジェになっていた。
それでも研究室には知っている顔がいたし、大根に有る僕のアパートは、僕がいない間も殆ど友だちたちのサロン化(雀荘化)していたので、部屋に戻れば必ず知った顔が午後から訪ねてきて、勝手に雀卓を出して、勝手に母が箱で送って来てくれていたインスタントラーメンを食べて、麻雀に興じ、無駄話をしていった。
母は僕が日本にいないことは知らなかった。だから定期的に色々なものを築地で買っては送ってくれていたのだが、それらはすべて僕のアパートへ集まってた連中が消化してくれていたのだ。
そこには銃声も戦車が通る音も、爆発音もなかった。半年間の断絶はまるで無かったように消えて、学生としての日々がダラダラとあった。
僕は安心し、そして腹の奥底で苛立った。
毎夜、小田急の急行最終に乗って、新宿から六本木に出て、バーガーインに用事もないのに出かけていたのは・・・その自分では押さえつけられなくなりそうな苛立ちのせいだったのかもしれない。
そのバーガーインで、ある夏の夜。一緒に坐ったベースが得意そうにニューヨークの話をしていた。
「いいぜ。ニューヨーク。金の都合が付いたら、すぐに戻るんだ。」彼が得意げに言った。
どうやら、向こうのクラブで仕事をしていたらしい。彼はニューヨークの音楽シーンがどんなに熱いか。東京のそれがどんなにダメかを滔々としゃべっていた。
「アッパーウエストに、あんまり煩いことを言わないで、部屋を貸してくれるアパートメントホテルが有るんだ。色々な国の連中が住んでるんだ。日本人のバンド屋も何人か住んでて、オーナーの婆さんが日本人は部屋を汚さないからいいって、簡単に貸してくれるんだ。俺はそこにいたんだ。」
僕が熱心に聴いていると、彼が突然僕を見て言った。
「興味あるかい?」
「うん。」僕が返事すると、彼がニヤッと笑った。
「紹介してやるよ。良い婆さんだぜ。金さえまとめて最初に渡せば誰でも何時からでもウエルカムだ。それにヒロさんってギターが同じアパートの五階に住んでるんだ。ヒロさん、顔ひろいから、頼めば仕事回してくれる。・・どうだ?紹介してやろうか?」
そのベースは挑戦するように僕を見て、笑った。どうせ出来ねぇだろ・・という笑いだった。
「うん。紹介してもらっていいか?」
「へぇ。」ベースが言った。「OK。」
そう言うと彼は、バーガーインのナフキンを取ると、そこに持っていたボールペンで、ホテルの名前と住所。そして何本かの線を書いて「これがアムステルアベニュー、これがブロードウェイ」と横に走り書きをした。
「今年の初めまでいたケントの紹介だって言うんだぜ。それで婆さんグズったら、ヒロさんの名前を出せばいい。それでOKさ。家賃は80ドルだ。最初に渡せば絶対に貸してくれる。」
そういうと僕に、そのナフキンを笑いながら渡した。どうせ行かねぇだろという笑いだった。
そしてその秋・・
JFKで入管の前に立つと、係員は不機嫌そうな顔のまま僕のパスポートを開いた。しかし最初のページ。続けざまに押されたU/S/Oのスタンプに気が付くと、係員の態度が一瞬で変わった。かえって僕がビックリするくらいだ。
そして「お帰りなさい。ここは君の国だ。」と笑顔で言った。
U/S/O (the United Service Organizations)のスタンプの威力は凄まじい。この後も、何らかの理由でパスポートを提示するたびに、僕はその絶大な威力を体感した。
「どこで仕事をした?」と係官。
「オキナワ、グアム、フィリピン、サイゴン、タイランド、・・たくさん・たくさん」僕が肩をすくめていうと、係員は驚く。
「サイゴン!??。。おつかれさま。本当はハグしたいところだ。」彼は笑いながら言った。そして入国スタンプを押すと共に、一緒に出した税関の書類に「サイゴン。俺たちのヒーローが帰ってきた」とサインして、僕に渡した。
税関を通るときに、それを係員に渡すと、今度は否応なしに係員が僕をハグした。
そして「お帰り。ここは君の国だ。エンジョイしてくれ。」と言った。荷物チェックは無い。
僕はこうやって、はじめてのニューヨークに立った。
荷物はその年の春、横谷にC141で降りたときと同じ、軍給のナイロンダッフルバッグだけ。飛行機はアンカレッジ経由のJAL。チケットは往復で50万円以上だったと思う。六本木のバーガーインで、ニューヨーク帰りのベースと話してから3か月後の1975年・初秋のことだ。
財布には100札が10枚と20ドル札が数枚入っていた。ドルは300円を前後していた。
その頃、外貨の持ち出し上限が3000ドルだったことは、よく覚えている。上限いっぱいに持っていこうかと思ったけど、1000ドルちょいにしたのは、三舟さんに「現金の持ち歩きは危ない」と言われたからだ。「それと羽田で、そんなにドル持ってたら、渡航理由をしつこく聞かれるぜ。」と言われた。
なので、三舟さんに僕が持っていたドルを全部渡して、困ったときは送金してもらうことにした。母に頼まなかったのは、そんな煩雑なことが母に出来るとは思わなかったからだ。
バゲッジクレームを抜けてゲートを出ると、薄暗いホールに出た。
ホールには、目付きの鋭い男が、何人も屯していた。どうやら白タクのドライバーらしい。しかし、ワンショルダーの米軍制式ダッフルバッグを肩にかけている僕に声をかけてくる奴は一人もいなかった。僕は少し迷ってから、Manhattan行きのバス乗り場を見つけて、それに乗った。グランドセントラル行きだった。
バスが走り出してから、バッグの中から旺文社発行のニューヨークのガイドブックと、あの夜ベーシストが書いてくれたナフキンを出した。これだけが頼りだ。住所の見かたは、ガイドブックだけじゃわからない。ま。マンハッタンに着いたら、誰かに聞けばいい。そう思っていた。なんという! お気楽ぶりだ。
バスから摩天楼が見えるまでは一時間以上かかった。イーストリバーに架かる橋の上を走ると、マンハッタンの茶色い煤けたビル群が目の前に広がった。
ニューヨーク!! ほんとうに来たんだ! そう思った。鳥肌が立った。24歳の秋である。
本当は何処でも良かったんだと思う。ただただ怠惰な伸びきったラーメンみたいな奴らと同じ処に居たくなかっただけ、だと思う。高校時代には、大学に入ったら、そのまま大学に残って先生になろうと考えていたはずなのに。そのためにアルバイトをして頑張っていたはずなのに・・終点まで敷かれた線路を垣間見て、同乗している奴らの顔を見たとき。僕は、老いた自分の姿・加齢臭塗れの自分の姿を幻視した気になった。こいつ等みたいに死んだサンマの目をした生き方はしたくない・・と思ったんだ。
実は。だからといって、他の道を行けばそうならないかというと・・そうではない。要するに、線路の上で生きるか、線路から外れて生きるかではなく、もっと本性の「どう生きるか」の問題なのだ。だけど・・その時はそうは思わなかった。現状から飛び出たかった。そして僕はニューヨークへ出た。
そのニューヨークが目の前に有った。僕は街の様子に釘付けになった。
グランドセントラルにバスが着く。バスを降りて、先ず駅構内に入ってみた。そこはまるでJFKのアライバルホールのように薄暗く、そして汚かった。ホームレスらしき連中が、何人も茫然としながら彷徨っている。・・これがグランドセントラル駅か。僕はホールの真ん中に立って天井を見回しながら、そう思った。
とりあえず聞こう。そう思って、見かけた警官のところへ行ってみた。しかし聞こうとすると、黙って手で追い払われた。仕方ないので、駅のチケット窓口に行った。並んで聞いてみると、窓口の黒人女性は「地下鉄だよ」とだけ言って「ネクスト!」と、僕の後ろの男に怒鳴った。
僕は仕方なくまた、グラントセントラル駅の真ん中に佇むだけになってしまった。
それでも迷いながら、ようやく目的のアパートは見つけることが出来たのは、今考えてみても奇跡だったように思える。誰も助けてくれない。ツレなくされるだけ。
赤の1ライン。86丁目の駅を降りたときは、もう陽が沈んでいた。ここから91丁目のアムステルアベニューの先までたどり着くのも容易じゃなかった。
それでも何とか、らしきビルを見つけて、ドアベルを鳴らしてみた。
誰も出てこない。しばらくして、もう一度鳴らした。
出てきたのは老婆だった。あ。この人だ。僕はそう思った。
ところがそのあとが大変だった。婆さんの英語は早口で東欧訛りが強くて、ほとんど何を言ってるか判らない。この間までお宅にいた日本人ベーシストの紹介で日本から来たと言っても、そんな人間は知らない。うちは新しい居住者を募集していないを繰り返す。半ばあきらめかけたとき、ギターのヒロさんのことを思い出した。それで「ヒロという日本人がいるか?」と聞いてみた。そしたら「いるが、いまは出かけてる」という
「彼が帰るまで待ってもいいか?」と聞いたら「いい」といった。
僕はそのまま玄関の外で、ヒロさんが帰るのを待たされた。ヒロさんは2時間ほどで戻った。
ヒロさんに事情を話すと、ヒロさんは笑って言った。
「そんなこと話すアイツもアイツだが、信じてニューヨークに来ちまうアンタもアンタだな。」
「はい。いま僕もそう思ってます。」
ヒロさんは笑いながら婆さんと交渉してくれた。そして僕に言った。
「アイツ、レントフィーを溜めるだけ溜めて、トンズラしやがったんだってさ。もしウチをレントしたいなら、アイツの溜めた分も払ってくれってよ。払ってくれれば、アイツの部屋をそのままアンタに貸すってさ。
そりゃいくらなんでも酷いだろって言ってみたんだけど、婆さん、言うこと聞かない。もし何日か待ってくれるんだったら、どっか他のレントを俺があたってみるぜ?」
「いや、いいです。払います。」
僕が言うと、彼は呆れたように笑った。
もうヘトヘトだった。これ以上は動きたくなかったのだ。
こうして僕が持ってきた1000ドルは、たった半日で半分以下になってしまった。
だけど寝泊まりできるところだけは、何とか確保できた。まだ暑い秋の夜のことである