黒海の記憶#50/失速していくビザンツ帝国
こうしたルーシ人の拠点の中で最も栄えたのは、ドニエプル川の面して出来上がった街キエフだった。キエフは、川下の黒海北岸の諸都市と周辺川上諸地域を結ぶ中継都市として大いに繁栄した。黒海への河口にあるヘルソンまでは700kmあまり、キエフに集約した貨物の多くは川筋を辿って2日ほどで黒海海岸まで運ばれた。そしてその量が増えていくと共に、北岸で跋扈する商人は、大半がルーシ人になった。黒海における交易のイニシアティヴをルーシ人が握った。最初の千年紀最晩年の黒海は、まさに「ルーシ人のもの」になっていた。それはもいつのまにか、アラブの人々までが黒海を「ルーシの海bahr al-Rus」と呼ぶようになったことからもわかる。たしかに相変わらずクリミア半島はビザンツ帝国領ではあったが、地位的には「お客様控室」程度になっていたのである。
一例をロシア史のフォークロアである「ロシア原初年代記」の中に見てみよう。
987年、内乱によって失権しそうになったビザンツ皇帝バシレイオス二世Βασίλειος Β o Βουλγαροκτόνοςは、キエフ大公ウラジミール一世Володимѣръ Свѧтославичьに援軍を依頼した。ウラジミール一世は援助の見返りとしてビザンツ皇帝との姻戚関係を望んだ。バシレイオス二世の姉妹を差し出すことを要求したのだ。バシレイオス二世はこれを呑んだ。しかし内乱が治まると、この約束を反故にしようとした。ウラジミール一世は烈火のごとく怒り、ビザンツ領だったクリミア半島ケルソネソスを攻め、これを落とした。慌てふためいたバシレイオス二世は妹のアンナΆννα Πορφυρογέννητηを差し出した。
このとき、バシレイオス二世は結婚の条件として、ウラジミール一世がキリスト教へ改宗することをだした。ウラジミール一世は快諾した。そして「ケルソネソスをビザンツ帝国に返還し、キエフに帰って5人の妻と800人の妾と縁を切り、異教の神々の偶像を川に投げ捨て、洗礼を受けた後に新妻へのプレゼントとして、家臣その他を強制的にドニェプル川に連れて行き、集団で洗礼を受けさせた。(黒川祐次"物語ウクライナの歴史")」
もちろん、いうまでもなくルーシ人の間にキリスト教(正教)は既に広く伝わっていた。それでも王族がキリスト教になることで、ルーシ人のビザンツ人化は補完され、現代にまでつながる中世ロシア文化が形作られていったと言えよう。
その意味でもアンナ・ポルフィロゲネタの存在は、初代フランク国王クローヴィス1世をキリスト教に改宗させたクロティルダChrodechildisに匹敵するほどのアイコンだったと云えよう。
この婚姻関係による同盟は、バシレイオス二世の野望を駆り立てた。
彼は、もうひとつの目の上のタンコブだった黒海西岸「ブルガリア帝国」へ、キエフ公国軍の力を借りて攻め込んだのである。
ブルガリア帝国首都プレスラフは当時コンスタンティノープルに肩を並べると言われた都市である。彼はこれを陥落させた。
「ロシア原初年代記」の中に「バシレイオス二世は、とらえた100人の捕虜のうち99人の目をつぶし、司令官一人だけを目が見えるまま残し、残りの者たちを率いさせてブルガール人の宿営地へと帰した」という記録が載っている。
バルカン半島の大部分がビザンツ帝国のものになったのは、間違いなくルーシ人のおかげだったと云えよう。
しかしこのキエフ公国とビザンツ帝国の蜜月関係は長持ちしなかった。次の千年紀に入るころからトルクマン人たちが跋扈するようになったからだ。彼らによって、ビザンツ帝国は黒海北部沿岸諸都市を失い、キエフ王国との同盟関係も断ち切れになってしまった。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました