佃新古細工#04/佃島遠景
元佃で母と同居していた伯母が摺師だった話をしたことがあるよね。工房は新佃側清澄通りの向こうにあった。「ごめんくださいまし」の話をしようかと思ってたら、そのことを思い出した。
叔母の工房へ母の使いで出かけて、そのままグズグズと色々細かい仕事を手伝うと小遣いをくれたんで、あのころ叔母の工房は僕にとって重要な収入源だった。
手伝いったって、大したことじゃないよ。トンボ切ってある台木を揃えたり、用紙を数えて伯母の横へ置いたり、絵具を溶いたりするくらいなものだ。それでも伯母は気前よく小遣いを弾んでくれた。一人で黙々と仕事するより、甥っ子が傍にいてワサワサと何かやってることのほうが嬉しかったのかもしれない。
この伯母の工房なんだが、実に色々な出入り業者が来た。絵具も用紙も、他の消えものもすべて届けてくれる時代だったんだ。
こうした材料屋のオジサンたちは必ず「ごめんくださいまし」と訪ねてきた。「ごめんくださいませ」というオジサンは一人もいなかった。だからやっぱり「ませ」は男言葉だったんだろうなぁ・・そう思う。でもアタマに一拍おいて「・ごめんくださいまし」という仇なお姉さんも佃には居たから、まあ云わばあのお姉さんたちは「男装の麗人」だったんだろうな・・そう思う。そういや杜甫の「麗人行」の中に「三月三日天氣新 長安水邊多麗人」という一文があるが、大川(隅田川)も水邊多麗人だった。ほんとにね。大川水邊多麗人
もちろん今でも麗人は居られる。まえにウチの店を訪ねて女性お二人がお席で「こういう小洒落たお店、好きなの」と話されるのを小耳にはさんだことがある。"キレイな"ではなく"洒落た"それも"洒落た"ではなく"小洒落た"・・とてもうれしく思った。
あ~話が取っ散らかるなぁ。つまり「男装の麗人」はいるけど「女装の漢夫」はヘンテコだということ・・です。
ところが時折訪ねてくる「親方」はちがった。
親方は「はい、ごめんなさいよ」と訪ねてきてた。
親方ってぇのは版元で、伯母に仕事を出してくれてるトコの旦那だ。版木はたいていこの親方が自分で運んでいたように思う。伯母は「あら、いらっしゃい」というと仕事の手を休めて、目の前のおざぶを裏返して、お茶の用意で台所へ入った。「おかまいなく」と親方は言う。でもお構いしないわけはなく、裏返しにされた座布団に座り、出されたお茶を飲んでたね。
「おう、坊が来てるのか?伯母さんの手伝いをしてるのか?えらいなぁ」といって、必ず小遣いをくれた。だから大好きな人だった。
いま思うと「ごめんなさいよ」と言ってたのは、親方だけだったな。
「数モノ」を取りに来る近くの印刷屋は「ごめんくださいまし」と言ってたと思う。
「数モノ」とは、季節ごとに出る挨拶状とかその手のものね、良いものは伯母みたいな摺師が拵えていたんだ。・・なぜ「数モノ」と言ってたかというと、きっと浮世絵と違ってドンドン数刷らなきゃならなかったからかもしれない。
ついこの間、佃へお参りに行ったついでに、清澄通りの向こう側、東仲通りを歩いてみた。60年の時代の壁は高いなぁ。まったく知らない風景にさま替わりしていた。
昭和は遠くなりにけり