夫婦で歩くシャンパニュー歴史散歩3-1-4/ランス旧市街散歩でガロロマンを見つめる#04
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カエサルはレミ族について「ガリア戦記」の中でこう書く。
The Remi, the Belgic tribe nearest to Gaul, sent as deputies to him Iccius and Andecumborius, the first men of the community, to tell him that they surrendered themselves and all their stuff to the protection and power of Rome; that they had neither taken part with the rest of the Belgae, nor conspired against Rome; and that they were ready to give hostages, to do his commands, to receive him in their towns, and to assist him with corn and everything else. All the rest of the Belgae, they said, were under arms, and the Germans dwelling on the hither side of the Rhine had joined with them; and the infatuation of them all was so great that the Remi had not been able to dissuade even the Suessiones from taking part with them, though these were their own brethren and kinsfolk, observing the same law and ordinances, and sharing one government, one ruler with themselves.
— Caesar 1917, p. 93 = Bello Gallico, 2.3.
ガリアに最も近いベルギーの部族であるレミは、共同体の最初の人々であるイッキウスとアンデクンボリウスを代理として彼のところに送り、自分たちと持ち物すべてをローマの保護と権力に委ねることを告げた。彼らはベルガエの残りの勢力に参加したことも、ローマに対して共謀したこともなかった。そして、彼らは人質を差し出し、彼の命令を遂行し、町で彼を迎え入れ、トウモロコシやその他あらゆるものを提供する準備ができていると述べた。彼らによれば、残りのベルガエ人は全員武装しており、ライン川の向こう側に住んでいたドイツ人も彼らに加わったという。そして彼ら全員の熱狂があまりにも大きかったので、レミはスエッショ人ですら彼らに参加することを思いとどまらせることができなかった。彼らは自分たちの同胞であり親族であり、同じ法律と条例を遵守し、一つの政府を共有しているにもかかわらず、
カエサルの侵攻に対して、レミ族はイッキウスとアンデココンギウスの下でカエサルに恭順した。ローマ軍の持つ技術力/先進性に、ガリアが如何に数で勝っていたとしても敵わないと、レミ族は思ったのだ。カエサルの侵攻に対して最後まで恭順したのは彼らだけだった。
「カエサルの戦いは、自分の知名度を上げる事と、メイクアマネーだった」
「お金と名誉ね」
「ああ、有能な男だったが、彼の本性は皆に見透かされていた。それがブルータスに繋がるわけだけど、実はガリアへの侵攻でも、彼はガリアを征服し金を集めまくったが、支配はしなかった。結果から見ると、次から次に転々としただけだった。だから彼が去った後は息を潜めていたガリア人が各地でまたぞろ失地回復したわけだ」
「そんな余裕はなかったのね」
「まさにその通りだ。彼の生きる場所はローマで、ローマでの自分の地位獲得が、彼の最も重要なテーマだったからだ」
「それがルビコン川に繋がっていくわけね」
「ん。しかしだな、レミ族は違った。他のガリア人が元の木阿弥に戻ったんだが、ランスはそうならなかった。北のローマの拠点として機能し続けたんだ。
北の属州の首都として機能したんだ。いま僕らがランスで見かけるローマはその頃にモノばかりだ。
バルバルト通りにPorte Bazéeってあっただろ?
35 Rue de l'Université, 51100 Reims,」
「壁面に大きなレリーフが掘ってあるところね」
「ん。アレはこの街への玄関口だった。Les Hautes Promenadesの中にあるLa Porte de Marsは、よく凱旋門と書かれてるガイドブックがあるがな、ランスには誰も凱旋してない。あれは凱旋門じゃない。
Pl. de la République, 51100 Reims, フランス
ランス(当時はデュロコルトルムと言った)に入るには、四方に4つの門が有ったんだが、アレはその一つが残ったものだ」
「え~四方がある・・ということは・・」
「そう。四角形の街へ改修されたんだよ。ものの本によると約600ヘクタールだったという。街は京都みたいに格子状に作られた。二つの道カルドle cardoとデクマヌスle decumanusが主軸になった。
CARDO MAXIMUSはPORTE DE MARSとPORTE BAZÉEを結ぶ軸。いまはロワイヤル広場までのラン通りにとはバルバートル通りとガンベッタ通りに分断されている。le decumanusは、ヴェスル通り・ジャン ジョレス通り、セレ広場、ロワイヤル広場を通過する道だ」
「いまのランスの旧市街がソレね」
「ローマが鳴動しているときでもランスは凋落はしなかった。しかし4世紀半ばからゲルマン人の侵攻が始まるんだ。彼らはランスも襲った。ランスは窮地に陥った。市街は縮小され、4つの門の中/城壁の中へ閉じこもったんだよ。城壁は、いまのタレーラン、シャンジー、コントライ、デ・ムルス N 2 、ポンサルダン、ロジェ、アンドリュー、デソーボー大通り15の通りで囲める楕円形だったという」
「で・どうしたの?」
「406年に城壁は破られた。ヴァンダル人が街を蹂躙して略奪した。続いてフン族が451年に侵略してきた。小ローマとしてのランスはこの時に滅んだ。西ローマ帝国が滅亡したのが476年だ。この頃の遺跡は要塞の痕跡、ローマ街道の痕跡しか残っていない」
「教会は?キリスト教はローマと一緒に入ってきたんでしょ?」
「ん。しかし巨大な教会はなかった。最初の大聖堂が出来たのは300年代に入ってからだ、シクストゥス司教の指示で作られた。いまのランス大聖堂が建造されたのは400年代のはじめだ。ニカシウス司教によって作られた。ランスの教会は、ゲルマンの侵攻以降に作られたもんなんだよ」
「なるほどねぇ」
「そしてクローヴィスが洗礼を受けてキリスト教徒になったのは496年12月25日と言われている。フン族をフランク族が撃退した後だ。同時代の歴史家トゥールのグレゴリウスGregorius Turonensisによると、同日3,000人のフランク軍兵士も洗礼を受けたとある。以降、ランスはフランク王国の聖なる都市になったんだょ。そして現在に至るまで多くの聖堂/修道院がランス市内と郊外各所に作られたんだ」
「いま見るランスの姿はその頃から形作られていったのね」
「9世紀に入ると、今度は北のノルド人たちが侵攻してくるんだが、ゲルマン族フン族の時のような体たらくはなかった。ランスはきちんと聖都市としての威厳を守って街を灰燼にはしなかったんだよ。ノルド人の襲撃にはどこの街も辛酸を舐めていたけどな」
「シャブリへ行った時の話よね。
「ああ。スラン渓谷の村シャブリへ避難してきたサン・マルタン修道院の話だ。もともとはトゥールにある修道院だった。あれもトゥールが度々ノルマン人の襲撃を受けて甚大な被害を受け続けたんで、已む無く引っ越しした事件だった。いまのシャブリの祖型を作ったのはサン・マルタン修道院だ」
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました