リブリヌ03/サンテミリオン村歩き#27
アベル=シュルシャン広場に面したLa Mie Câline(25 Pl. Abel Surchamp, 33500 Libourne)というファストフードの横を抜けてクレマン・トマ通りRue Clément Thomasへ出た。
「この道を真っ直ぐ進むとイエル川にぶつかる」
「内陸部から持ち出されるのに利用された川ね」
「ん。ペリグーPérigueuxまで繋がるロジスティックルートだ。リブリヌが貿易港として大きく育ったのは、このイエール川がドルドーニュ川とぶつかるところだったからだよ」
「ペリグーって、ペリグーソースsauce Périgueuxのペリグー?」
「ん。ドルドーニュ県の首都だ。フォアグラの町だ。旧い町だ。内陸部の交易拠点としてローマ時代からあった。そのペリグーとリブリヌを結んでいたのがイエール川だ」
河に辿り着くと、岸辺にベンチが並んでいた。僕らはこれに座った。
「ドルドーニュ川に比べると、そんなに大きくはないのね」嫁さんが言った。
「そうだな。でもこのロジスティックルートのおかげで、町は大きくなり、英国とガスコーニュを繋ぐ交易地として大いに発展したんだ。しかし1294年だ。長い英仏戦争の終盤でリブリヌはフランス軍の手に墜ちた。町は暴徒のようなフランス軍兵士の謀略に晒されたんだよ」
「あらま、同じフランス軍なのに?」
「ん~長い間英国領だったしね。それとリブリヌの人々はフランス語を話さなかった。地元のガスコン語だったんだ。今でもガスコナードって差別語があるけどな、フランス軍には"お前らフランス人じゃねぇ"という気分が有ったんだろうな」
「ガスコン語?」
「ランクドック・ルシオンの言葉だ。この辺りは南仏リグリア人の土地だったからな、彼らの言葉がそのまま使われていたんだ。だから異郷として、リブリヌはフランス兵暴徒に戦利品として略奪されたんだよ」
「酷い話ね」
「たしかにフランス王は、ガスコーニュ地区を英国から奪おうとした。しかしガスコーニュの人々にとって商売の相手は英国だったんだ。英国との交易が糧の手段だったんだ。英国との関係が立ち切れれば、町として機能しなくなってしまう。1294年のリブリヌ陥落は、文字通り町としての生死の問題だったんだ」
僕らはイエール川を岸辺に沿って上流に歩いた。
「ちなみにこの通りも1945年5月8日通りという。ナチスドイツが敗北した日だ」
「リブリヌもボルドーがナチ占領時代が有ったのね」
「ん。この町に残っている戦没者記念碑はその鎮魂だ。ここでも沢山の若い人々が死んだんだ」
「ボルドーやリブリヌ、サンテミリオンにとって第二次世界大戦は、ついこの間の戦争として、しっかり記録と記憶として残されているのね」
僕らはジャン・ジャック・ルソー通りRue Jean Jacques Rousseauへ入った。また町の中へ戻った。
「この通りにコルデリエ修道院(37 rue Jean-Jacques-Rousseau 33500 )があった」
「サンテミリオンに有ったのと同じ?」
「ん。1287 年頃に設立されたという。最初は長方形で修道院の典型的なアーチ型天井はしていなかったそうだ。11300年代に入って側廊が追加され、ようやくアーチ型天井になって彫刻やフレスコ画で装飾されたという。礼拝堂は4つあったそうだ」
「立派だったのね。今は何も残ってないの?」
「ない。コルデリエ修道院址ということでしかない。まあ此処はリブリヌが英国領時代最晩年に建立されたんだが、何ともご難が続いた修道院でね、1377年にフランス軍指揮官だったベルトラン・デュ・ゲクランが破壊したことから始まって、1563年には宗教戦争に巻き込まれてユグノーが略奪している。そして1600年代になると、今度は建物ごと宮廷管理下に入ってルイ14世の別宅になっちまった。それでも何とか1650年になって、アレとアングレームの司教および宮廷領主のものになったんだが、1700年代後半はパリ革命だ。これが致命的で修道僧は散り散りになり建物は破壊されちまった」
「ほとんど何も残ってないのね」
「壁面の一部だけだ。フレスコ画とかが一部残っていたそうだが、1962年に完全に解体されて、いまは何も残っていない」