小説特殊慰安施設協会#23/銀座ライオンビアホール開店
終戦からまだひと月経っていない1945年9月13日朝日新聞に以下の記事が載った。
《進駐兵と麦酒 呷る終戦の味
「おゝこのビールの泡! お前のその冷たい接吻こそ身にしみる終戦の味」十二日午後三時進駐軍のために開かれた都内初のビヤホール、銀座七丁目元「ヱビスビヤホール」は厚木、横浜方面第八軍各部隊、空挺部隊、海兵隊の兵隊たちの喧騒でふくらんだ。この日特殊慰安婦施設協会キャバレー部のダンサーたち四十名も接待役で応援給仕役を担当した》
これは、前日の12日にオープンしたR.A.A.キャバレー部直営一号店・銀座七丁目のヱビスビヤホールについての記事である。この記事は切り抜かれて、誇らしげに回覧板としてR.A.A.内に回されている。R.A.A.の出自を知る各新聞社にとって、協会の動静に触れるのはある種タブーになっている感があった。なので初めて記事として、それも好意的に取り扱われたのだから、社員は、自分たちの仕事の未来に差した太い光の束のように思ったに違いない。
この開店に向けて、キャバレー部は全力投球で動いていた。来週初めには千疋屋ビルでキャバレーも始まる。ダンサーの採用。そのダンサーたちの寮。レッスンルーム。ダンサーたちの衣装と美容室の確保。スタッフの英会話教育。什器の確保。内外装設備。バンドの確保。飲料の手配。食材の手配。全てを不眠不休でこなしたのだ。
その中心にいたのは林穣である。彼の家はその頃荻窪にあった。彼は早々に自宅からの通勤を諦め、近くの知り合いの家へ単身で間借りしていた。もちろん着替えと就寝だけが目的である。ほとんど毎日、深夜遅くに帰宅し、そのまま倒れるように寝て、朝は前日のうちに家人が荻窪から届けてくれた服に着替えて、食事もせずに早朝そのまま出社した。
林穣の仕事はキャバレー部内のものだけではない。慰安部も調達部もGHQがかかわる問題は全て彼に頼った。そのため彼の担当業務は煩雑を極めた。しかし幸いなことにGHQ側の担当者であるアンドリュー・ワッツ中尉が、毎日一度は必ず事務所に顔を見せてくれるようになっていたので、横浜のGHQ総本部へ出かけることは少なくなっていた。
そしてヱビスビヤホール開店当日。夜半から降り始めた雨に、最後の仕上げで前日から泊まり込みで働いていたスタッフ全員やきもきしたが、その雨も午後には止んで爽やかな夏の日差しに替わっていた。まだ道路側には雨の水溜りは残っていたが、ワッツ中尉が各セクションへ通達として知らされてくれたおかげで、開店前から店の前には米兵の長蛇の列が出来た。そしてその列をワッツ中尉とMP二名が監視していた。
その日は「従業員募集」の大看板は出さなかった。林穣の指示で片づけられていたのだ。昼までの雨が降ったせいも有って、応募者の列は出来ていなかった。米兵の列はR.A.A. 協会が入っている幸楽ビルを越えて長い列になっていた。しかしMPが目を光らせているせいも有って歓談する者はいても嬌声を上げる者は誰もいなかった。
三時に、店内から出てきた林穣が店を開けると、その長い列が店内に吸い込まれた。林穣は入口のビールチケット売り場の横に立った。壁に「ビール一杯4円」と張り紙を出したが、林穣は先日の小町園での苦い経験から、米兵の中には文盲が少なからずいると見て、入口で『ビールチケット一枚4円!』を連呼していた。千鶴子は着物を着て、中央カウンターで兵士たちにビールを渡していた。
中央カウンターには、この数日で採用したダンサーたちが全員着物姿で、チケットと交換でビールを手渡していた。米兵たちは、彼女たちの片言の英語に歓声をあげて喜んだ。もちろん兵士たちに話しかけられても、何を言われているかはほとんど判らない。開店前に憶えた短い言葉を言うだけだったが、それもまた米兵たちを大喜びさせた。
彼女たちに簡単な英会話を教える、というのは林穣のアイデアだった。担当は千鶴子がした。千鶴子は一緒にボーイたちにも簡単な言葉を教えたいと提案した。ホールを走り回っているゲンが、米兵相手に途方にくれないようにするためだった。
千鶴子は、簡単な英語をカタカナで書いて、その下に日本語の意味を書いた紙片を作り、それを謄写版で刷って彼女たちに渡した。同じようにボーイたちにも、彼ら用のものを作って配った。その紙片を片手に、千鶴子がダンサー全員を集めて英語での応対練習をしているところに、林穣が通りかかったことがある。そのとき彼が手を上げて言った。
「いいですか?米国人と話をするコツは簡単なんです。相手の話は聞かないんです。でも聞いているフリだけする。そして自分が知ってる簡単な、いま習っているフレーズだけしゃべる。これでいいんです。」ダンサーたちは、林穣を見つめながら大きく頷いた。
実はこのとき千鶴子が作った「簡単な英会話集」が、R.A.A.のキャバレーで働くダンサーたちの間に書き写し・書き写しで広がり、彼女たちの標準的な英会話になったのだ。そしてそれが翌年から、街に立つようになったパンパンガールのしゃべるパングリッシュの源になって行くとは、千鶴子は思いもつかなかった。