サルラ・カネダ05/サンテミリオン村歩き#42
https://www.youtube.com/watch?v=EsTykitaAhc
聖マリー教会の鐘楼を出ると、右前にCAFE BRASSERIE GLACIER LE PLAMON SARLAT(14 Rue des Consuls, 24200 Sarlat-la-Canéda)というカフェが有った。僕らは外のテーブルに座った。
店はコンシェル通りにテーブルを並べていた。
「この町でも、フランス革命軍は教会組織を解体し、貴族たちを追放した。でも狂乱した暴徒による悲惨な襲撃事件や破壊までには至らなかった」
「だから中世の趣きが残ったわけね」
「ん。たしかに貴族たちの屋敷などは、地元のブルジョアたちが買い漁り、速やかに消え去っていったんだが、教会や修道院は買い先が決まらなくて放置されたんだ。それはこの町を支えていたのが教会だったからだろうな。畏れ多かったにちがいない」
「なるほどねぇ。修道院から始まった町ですものねぇ」
「ん。だから結局、宗教設備の大半は競売されることなく市政のものになったんだよ。フランス第二共和政の時代だ。ナポレオン三世が台頭した頃だ。教会や大聖堂は声教設備として残ったんだ。ほとんど簒奪も破壊もないままね」
「幸運だったのね」
「ん。しかし第二共和政時代は、この町に大きな影響をもたらした」
「?」
「ナポレオン三世の命令でジョルジュ・オスマンがパリの大改造をはじめたことだ。サルラはこれにに感化されて、すぐさま町の真ん中にルパブリック通りRue de la Républiqueを敷設した」
「さっき歩いてきた通りね」
「ん。これが産業的に大成功した。それに気をよくしたサルラ市政は、続けざまに1837年から1865年にかけて、町のインフラ整備を幾つも起こしているんだ。上下水道の改造再整備もこの頃からだ。言うまでもなく、こうした公共事業は大きくサルラの経済活動を刺激した。む潤したんだよ。そして1882年7月にボルドーへ繋がる線路が敷設されたことで、交易の町サルラは、500年ぶりに経済ルネッサンスを迎えていくんだ」
「サルラは新しい春の時代を19世紀になって迎えたわけね・・で・・いつもならココで、ところがだな、が出てフィロキセラの話になるんだけど」
「ならない。サルラの産業は19世紀に入ってタバコ・プランテーションが主産業だ。そしてトリュフやフォアグラという農製品だ。フィロキセラの影響は皆無だ。しかし第一次世界大戦/
第二次世界大戦と続く。若者は戦争に狩り出され、多くの人々は還ってこなかった」
「シャブリの時も、シャンパニューでもその話は出たわね」
「この二つの大戦を欧州は自分の土地の上で行ったからな。傷は深い。この町の戦争記念碑ははウージェンヌ・ルロア通りとルパブリック通り(24200 Sarlat-la-Canéda)のところにある」