ナダールと19世紀パリ#10/毒弟エイドリアン
5才年下の毒弟エイドリアンAdrienがナダールを頼ってパリへ出たのは20才の時だった。このときからナダールは、この出来の悪い弟を生涯背負うことになる。
ナダールとエイドリアンの関係を見ていると、情が絡まる血縁がもたらす悪業(悪カルマ)に人が如何ほど振り回されてしまうものか・・痛いほど判る。血縁は断ち切るのが難しいゴルディアスの結び目だ。
パリにエイドリアンをナダールが呼んだのか、エイドリアンが生活の糧を求めてパリへ出てきたのか・・いまとなっては判らない。ともかく収入が安定してきていたナダールは、パリへやって来た弟を受け入れた。そして知り合いのあいだを連れて「これが俺の弟だ」と紹介して歩いた。エイドリアンは、ナダールのお金とコネで幾つものワークショップに参加し、文学や様々な芸術のサークルにも参加するようになった。しかし有体に言うならば、エイドリアンは兄の七光以外何もない男だった。陰で「あれでナダールの弟か」と冷笑されることが多く、その声は彼の耳にも入った。その劣等感からだろうかエイドリアンは次第に兄を腹の中で憎むようになった。・・それでも兄に従って生きた。面従腹背の弟になったのだ。それはエイドリアンであり、ナダールの不幸でもあった。
23才の時エイドリアンは、政治カフェで熱くポーランド独立を語る兄に従って、碌に考えないまま志願兵となりポーランドへ向かった。そして戦うことなく捕虜になりパリへ送還された。・・パリへ戻ってからも兄の仕事を手伝うことで糊口を凌いだ。何ができるわけでもなかった。ただただ兄の言うことを聞くだけの人生だった。
1851年。ナダールは、ふとした話から石版画の制作を思いついた。それは当時パリで有名だった人々1,000人を一堂に会した風刺画を描くというものである。縦75cm横104cmの石版4枚に250人ずつ描き、その石版画から起こした版画を売るというアイデアだった。ナダールはこの間に夢中になった。有名な『パンテオン・ナダールPanthéon Nadar』である。
ナダールは早速その第一枚目の制作に入った。もちろんエイドリアンは雑用係としてこの制作に参加している。
出来上がった『パンテオン・ナダール』は左端に女神のようなジョルジュ・サンドの石像を描き、その右横から4列で有名人を描いたものだった。これが店先に飾られると大人気を博した。パリジャンはどれが誰なのか大騒ぎして当てた。ナダールは得意満面だった。しかし・・売り上げは最悪だった。だれも版画を買おうとはしなかったのだ。『パンテオン・ナダール』は大人気だったが、1枚だけで失速した。
しかし商売としては不成功に終わった石板作りだったが、この制作過程でナダールは生涯のテーマを得た。写真術である。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました