日本国名の由来を追って#16/中華王朝は、常に多くの流民/避難者・亡命者を出しつづけた
中原に興きた幾つもの中華王朝は、常に多くの流民/避難者・亡命者を出しました。南海を挟んだ朝鮮半島は、こうした人々を受け入れる器として機能していた。丁度いい距離感だったのかも知れません。
朝鮮に立ちあがった三韓三国、箕氏朝鮮/楽浪郡・帯方郡/弁韓・辰韓・馬韓/任那/百済/新羅/高麗そして李朝朝鮮と、すべてこれらの避難者・亡命者によって支配されていたと考えるのが妥当でしょう。
もちろん、これらの諸国は出自の違い都合の違いで憎しみ合い勢力争いをしていた。その戦いに追われた人々が東海を渡り日本列島に、ほぼ500年ほどのタイムスパンの中で移り住み、再度自分たちの国を作った。こう考えるとAD300頃から唐突に朝鮮半島への覇権を熱心に追い始める背景は理解できますね。
・・日本列島には、近畿地方より東にまだまだ肥沃な未開拓地域が有った。にもかかわらず海の向こうへ心を向けるのは、それなりの理由が有ったからに違いありません。
タイミングよく、夫余(満州あたり)から始まった騎馬民族・高句麗が、力を付けて朝鮮半島を南下し始めます。任那/百済/高麗などは、圧倒的な武力差に惨敗してしまいます。その、彼らが日本列島に有った親類縁者とも云える国々に救援を求めたことで、日本列島で再興果たしていた漢族末裔らは朝鮮半島へ攻め渡る理由が出来るわけです。
ところが。拓跋氏だった唐が中原の実権(AD618)を握ると、彼らは夫余(・高句麗の殲滅を開始します。自分たちの出自に近しい夫余族に強い脅威感を持っていに違いありません。
実は、中原の覇者で朝鮮半島に強い関心をもった王朝は殆ど有りませんでした。漢でさえ、小さな出張所を置くに留めた。ところが唐は、高句麗から寝返りした新羅を巻き込み、朝鮮半島へ大攻勢をかけるのです。
この動乱に、日本列島にあった諸国も成り行き上巻き込まれてしまいます
当時、日本列島にあった諸国は、近畿地方に有った一族が優勢を占めていました。背景に広大な近畿平野があったことで、生産力に圧倒的な差が有ったからです。この、近畿地方に有った一族ですが、どうやら任那/百済系の人々が多かったようです。前述した秦氏は辰韓(秦韓)の民だったのではないかと言われています。
かくして633年。近畿地方に有った一族が中心になって、朝鮮半島南部・白村江で唐・新羅連合軍と激突。徹底的な惨敗に陥ります。
この惨敗が、日本国統一戦争である「壬申の乱」へ繋がっていったことは間違いないでしょう。
ちなみに、白村江敗戦後,唐の来襲を恐れた日本国(まだ成立していないが)北九州から瀬戸内海沿岸いにかけて、幾つかの築城しています。これらは朝鮮半島で作られた城塞の様式で"朝鮮式山城"と呼ばれています。それを増築した人々の出自が窺い知れますね。