見出し画像

夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩1-3/愛と慈悲


パリ・リヨン駅06:52発のリヨン行きはデジョンまで1時間41分で到着する。到着時間は08:33。
ブルゴーニュは何年かに一度訪ねているが、宿泊するのはいつもボーヌ村だ。デジョンには何か目的がない限りは泊まらない。
ボーヌ村は小さい。"31Km"とモノの本には書いてある。村の大きさは6km四方。充分ハジからハジまで徒歩圏内でokなところだ。
村は中世のころに作られた城壁に囲まれており、胸壁/城壁/堀とも今でも良好な状態で残っている。村の中は迷路のように道が繋がっているが、サイズが小ぶりなので何回か迷っているうちに段々と状況がつかめてくる。そのときの指針が村の壁で、これを越えなければ、歩いているうちに必ず見たことのある通りに会えるのだ。
「ボーヌBeaune」という名前の由来はガリア語の「ベレナBelena」だそうだ。水神「ベレンBelen」または「ベレノスBelenos」の村という意味らしい。村になっていった原形に泉が有ったからだという。森の佇む泉と小さな湖は、ガリア人にとって聖域だった。彼らはそうした聖域を守護神として小さな村落を紡ぎあげたのである。ちなみに、1768年にベレヌスの像が湖の傍らで発見されたことあるが、これはローマに支配された以降のものだった。
地中海からローヌ川を遡ると、川はリヨンで横T字に分かれる。
東に流れる川は、北上する川よりも細いが、ジュネーブの下に並ぶ山脈が切り出された銅は、この川に切り出されて地中海まで運ばれた。なので「ローヌ川と名付けられたのは、この比較的細い川のほうだった。真っすぐと北上する川は「ソーヌ川」名付けられた。
そのソーヌ川とローヌ川の分岐点からボーヌまでは150kmしか離れていない。川を遡れば一晩で辿り着く距離だ。

再三書くが、ローマ人とガリア人の交易は主体は錫鋼/ワインの物々交換だった。ワインはイタリア半島から運ばれた。しかし東方から寒冷耐用種が持ち込まれると、ワインはガリア所領内でも作れるようになった。先ずローマはこれを独占した。ガリア人たちには作らせなかった。
それでも時代が経つと、ガリア/ローマ人の混血ガロ・ロマンたちが増えて、なし崩し的に葡萄畑はローマからの監理化ではなくなってしまった。
「ボーヌBeaune」にも、実は早くから葡萄畑が有った。彼らのワインは西へ運ばれてソーヌ川を通してリヨンで売られた。そして西側を走るアグリッパ街道である。ここに運ばれたワインはCavillonumまで運ばれた。
Cavillonumは今のシャロン=シュル=ソーヌChalon-sur-Saôneである。アグリッパ街道Lyon-Boulogneラインはここから始まり、東北のBononia(いまのBoulonne-su-Mér)を繋いでいた。
小さなボーヌの人々にとってCavillonumは上顧客だったわけだ。

「しかしだな・・」
「ほらでた。しかしながらが・・」嫁さんが笑った。
「キリスト教がやってきたんだ」
「やってきたって・・でも、ローマが来たらキリスト教も来るでしょ?」
「313年のミラノ勅令まで、キリスト教は邪教だった。ローマでの迫害を逃れて、多くの布教者たちがローヌ川を北上した。そして各地で熱心に布教活動を行ったんだ。各地のローマ施政は許さなかった。そのために沢山の布教者たちが殺された。殉教したわけだ。シャロンではサン・マルセルが、トゥルニュではサン・ヴァレリアンが、リヨンではサン・イレネーが・・オータンではサン・シンフォリアンが、ソーリューではサン・アンドシュが、オーセールではサン・ペレランが、デジョンではサン・ベニーニュが死んだ」
「どうして?殺されてまで宗教を守ろうとするの?」
「んんん。むずかしいな。なぜそこまで信心を生きがいに出来るのか‥だな。
・・無理やりいうと・・キリスト教が愛の宗教で、仏教が慈悲の宗教だから・・なのかもしれない」
「愛と慈悲?」
「愛は激情で愛憎を孕む。殉教までは、たった一歩だ。慈悲に殉教はない。あるのは自己犠牲auto-sacrificiumだ。
この二つは天地ほどの差がある」
「・・そう。愛と慈悲・・ね」


いいなと思ったら応援しよう!

勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました