堀留日本橋まぼろし散歩#13/外堀・呉服橋御門外#02
「武州豊島郡江戸庄図」は、江戸図として最も初期のものである。
http://jmapps.ne.jp/usuki/det.html?data_id=555
ここに描かれている呉服橋御門外は東に楓川が流れ。西は外濠に面し、南は楓川と外濠を繋ぐ入堀で、北には日本橋川が流れていた。そして東側入り掘は、櫛形の船入堀になっていた。ここは江戸城・築城のための運搬荷揚場になっていた。江戸城築城期は城郭内に築城のための武士・職人・町民が居を構えており、彼らによって東側入り掘の運搬荷揚場へ持ち込まれた石材/木材などが使用された。
築城が進み、外濠が作られると、外堀の中は直参の武士たちが屋敷を構え、職人・町民たちは外堀外沿いに職種ごとに街を形成するようになった。これが寛永期になるとさらに整備され、参勤交代府令によって、それを支える御用人たちに屋敷が与えられるようになった。
この町に蔵が立ち並ぶようになったのは、このためである。彼らは東側にあった入堀河岸に屋敷/蔵を並べた。築城のために整備された櫛状の運搬荷揚場がそのまま御用人たち問屋の荷揚場になっていったのである。そして東海道・東の始点となる通町筋/西側には、運搬荷揚場を背景とした多くの問屋が店を並べた。西側は、これらを下支えした国役請負人・職人・町民が居を構えた。こうして呉服橋御門外は作られていったのだ。
「外堀から見て、蔵の並ぶ町・職人と御用侍の町・そして日本橋の大店が並ぶ町と、三段構造だった。それをガラガラポンしたのが薩長からやってきた明治政府だ。彼らが容赦なく欧化都市計画の大鉈を振るおうとしたんだ」
「振るおうとした・・ということは、振るえなかったの?」
「推進者は大蔵卿になった井上馨だ。江戸時代末期にヨーロッパへ留学した5人のうちの一人だ」
「前に言ってた長州五傑の一人」
「ん。明治革命軍の主要メンバーだった大久保利通や木戸孝允・伊藤博文たちが岩倉使節団として外遊に出ちまうと、井上は留守政府を預かり『今清盛』と呼ばれるほどの権勢をふるったンだ。
その井上が『官庁集中計画』を立てた」
「官庁集中計画?」
「ん。新橋まで来ていた横浜と繋ぐ鉄路を銀座まで伸ばし、これを中央駅にしようという計画だった」
「中央駅は東京駅じゃなかったの?」
「ん。井上は有楽町にする腹積もりだった。そしてこれを底辺とする東西の大通りを外堀外に敷設して、その中央から日本橋通りを皇居まで敷いて、そこから左に国会大通りを作り、ここに首相官邸などをならべるという計画だ。この計画は井上の失脚で頓挫するが、東京の近代化欧風化は当時のにほんにとって必須要項だったから明治21年になって改めて『東京市区改正条例』として再計画されたんだ。
この計画のヴィジョンに則って、東京の商業機能は呉服橋御門外/日本橋から京橋・銀座に移った。行政機能は井上が考えていた霞が関へまとめられたんだ。これは大きな変革だった。江戸は日本橋を中心とする"点の都市"だった。それが明治となり20年経って神田日本橋/日比谷霞が関という"面の都市"へ替えようとしたんだ」
「でもそのためには大問題があった。外堀内に有った大名屋敷さ。大半の大名は江戸幕府崩壊とともに国許に一族郎党を引き連れて帰っちまった。ほとんどが廃墟になってたんだ。明治政府は、練兵場にしたり兵営にしたり近衛兵のための陣営にしたり無理くり使っていたが、大半が荒れ果てたままになってた。それを買ったのが坂本龍馬ンとこの金庫番だった岩崎弥太郎の弟弥之助だ。弥之助は弥太郎の長男久弥彼の代理人として128万円(坪単価11円96銭)で丸の内全体を買ったんだ。明治23年だ。
その正面に東京駅をつくるという計画はすぐさま起こされたが、開通したのは大正3年だ。夢二が呉服町に『港屋草草紙店」を出した年だ。」
「なるほどねぇ~それでようやく話が八重洲口側に繋がるのね」と嫁さんが笑った「話が長くて、どこ繋がるのかハラハラしたわ」