夫婦で歩くブルゴーニュ歴史散歩3-2/クリュニー#02
https://www.youtube.com/watch?v=OARfEkjUjA4
フランス革命は、宮廷/豪邸と共に教会/修道院を破壊しまくった。中で一番襲われたのは修道院だった。当時の修道院/修道士たちは、利権に守られて瀟洒な裕福な生活をしていたからだ。革命の狂気で、日ごろから羨望と嫉妬で修道院を見ていた人々は、各地で修道院を焼き、祭壇を破壊し家財の一切合切を奪った。そして神父司教を殺し、逃げ惑った修道士は怒号を浴びながら鞭打たれ逃げまわった。
「クリュニーの町も炎と煙に塗れたの?」
「もちろん、クリュニーも例外じゃない」
「でも・・クリュニー修道院って・・この町の1/3くらいある修道院だったんでしょ?たくさんの人が携わっていたんでしょ?襲われた人たちは誰も抵抗しなかったの?そんな大きな軍隊みたいな人たちが修道院を襲ったの?」
「ん・・たしかに。革命を叫ぶ奴らは群衆だったが軍隊ではなかった。十字軍!!と叫んで東へ襲撃したと同じ精神世界だ。制式な武器装備した輩ではなかったんだよ。しかし熱病のように破壊の衝動に憑依されていた」
クリュニーを革命軍が襲ったのは1789年7月29日だった。バスチーユが7月14日だから15日後である。イジェの騒擾が7月26日。それが飛び火するように周囲の町へ革命!!の声が広がったわけである。前述のように、翌々日・7月28日からシヴレーとシャテルローで革命の火の手が上がったそしてそれがサントそしてコンフォランとモンリュソンへ広がり、南はアングレーム、リモージュ、カオール、ブリーヴ・ルへと瞬く間に広がった。
「クリュニーは修道院で構成された村だったからね。革命の火の手はウチからではなく、外から暴徒として町を襲ったんだよ。クリュニーの町の人々も修道士も次は我々がやられる!!と身構えていた。だから暴徒が襲ってきたとき、彼らは互角に戦ったんだ。町の被害は少なかった」
「でも・・9/10が破壊されたんでしょ?」
「ん。破壊したのは暴徒ではなかった。オカミだよ」
「オカミ?なにそれ??」
「革命政府だ。革命政府が宮殿/豪邸/教会/修道院の私財を人々が持ち出すことを合法化したんだ。
まず一回目は1792年8月14日。革命政府(国民議会)が「自由と平等という神聖な原則により、建てられた記念碑がもはやフランス国民の目の前に放置されることを許さない」と宣言したんだ。そしてすべての人々が「封建制の兆候」を除去せよと、合法的な簒奪を指令した。つまりこの時から、暴徒は暴徒ではなく正統的な回収者になったわけだ」
「なんかウソみたいな命令ね」
「うん。それですべての人々が我も我もと群がって壊されて行ったんだよ。誰も阻止することは出来なかった。阻止すれば反逆者として殺されてしまうからね。こうした法令が次々と出されたんだ。・・すべての資産を民の許へ返せ。とね」
「え~・・だったらクリュニーの修道院を壊したのはクリュニーの人々だったの?」
「ん。20年余りかけてね」
クリュニー修道院で最後のミサが開かれたのは1791年10月25日だった。そのあと修道士たちは町から追放された。これがクリュニー修道院900年の歴史の終止符になった。
1798年に修道院址は国有財産として押収され競売に掛けられた。管理委員会はこれを4つに分けて売った。住民地はブルジョアたちに合計6万フランで売られた。教会跡地は、マコンを仕切っていた石材商人たちが買った。彼らはそれを石切り場として使用し、放り出されていた遺物を解体して販売していった。
「ほぼ1810年までには大半のものが持ち出されたんだ。豪華な家具も図書館に納められていた重要な書籍も、二束三文で売られたんだ。金で装飾された美術品も、ステンドグラスのガラスさえも解体されて持ち去られた。そして聖歌隊のための鐘楼、門、正面門扉は、引きずり出されて溶かして鋳物にされたんだんだよ」
「でも・・それをやったのは革命に狂った暴徒じゃないのね」
「ん。革命を裏で仕切ったブルジョアたち、そしてソレに相乗りした連中なんだ」
「唖然とする話ね」
「ん。そうした火事場泥棒的な簒奪が1820年余りまで延々と続いたんだよ。逆に言えば、貴族/僧侶たちは30年間も強奪に遭うほど資産を貯め込んでいたという訳さ」
「そりゃそうだけれど・・でもねぇ」嫁さんが釈然としないまま溜息を付いた。
「ルイス・レオという美術史家がいる。彼が書いた本でHistoire du vandalismeというのがある。丹念にフランス革命によって破壊された美術品芸術品を調査した本だ。面白いよ」https://www.amazon.fr/gp/product/2221070151/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_taft_p1_i6
それが如何ほどて徹底的だったか・・一部だけ列挙したい。
➀パリ東「バスティーユ」1789~1790年に破壊。
➁パリ「テンプル塔」1808年~1809年に取り壊し。
③パリ「グラン・シャトレ」1808年に破壊。
④パリ「サン・ジャック・ラ・ブーシェリー教会」1793年に破壊。
⑤「サン・タンドレ・デ・ザール教会」1797年に売却1807年に破壊。
➅パリ「サント・ジュヌヴィエーヴ修道院」1807年に破壊。
⑦パリ南東「サン・ヴィクトール修道院」1811年に破壊。
⑧パリ北東「シャアリス王立修道院」1807年に破壊。
➈パリ北部「ロワイモン修道院」1792年に破壊。
➉ダンマリー・レ・リス「リス修道院」1797年に売却。
⑪アンボワーズ城「1806年から 1810年にかけて2/3が破壊。
⑫トゥレーヌ「リシュリュー城」1805年以降に破壊。
⑬パリ南西「古いムードン城 」1795年に焼失1803年に破壊。
⑭パリ北部「シャンティイのコンデ大公城」1799年に売却後破壊。
⑮パリ南部「ソーのコルベール城」 1803年に破壊。
⑯パリ西部「旧シャトー城の建物」1794 年に取り壊し。
⑰ディジョン「シャルトルーズ・ド・シャンモール」1791年から取り壊し。
⑱シャトー・ヌフ「サン・ジェルマン・アン・レー」国有財産として押収、売却され取り壊し。
⑲「グルネル城」1794年に破壊。た製粉工場になった。
⑳イヴリーヌ「マルリー城」1799年に売却され、1806年に取り壊し。
㉑「カーン城の天守」1793年から取り壊し 。
㉒ディジョン「サント・シャペル」1802年に取り壊し。
㉓「サンタンドレ・ダブランシュ大聖堂」1794年より1802年1812年に破壊。
㉔ノートルダム・ド・カンブレ大聖堂 」1796年に売却、取り壊し。
㉕アラス「ノートルダム・アン・シテ大聖堂」1805年に取り壊し。
㉖「ブローニュ・シュル・メールの大聖堂」1802年に取り壊し。
㉗リエージュ「ノートルダム・エ・サン・ランベール大聖堂」 1794年から1803年に破壊。
㉘ブルージュ「サン・ドナティアン大聖堂」1794 年に取り壊し。
㉙ブロワ「サン・ソヴァール大学教会」1793年に取り壊し。
㉚リール「サンピエール大学教会」1794年に破壊。
㉛ヴァランシエンヌ「ノートルダム・ラ・グランド教会」1798年に売却、取り壊された。
㉜マコン「ヴュー・サン・ヴァンサン大聖堂」1799年に取り壊し。
㉝「ノートルダム・ド・チュール大聖堂」1796年に破壊。
㉞アジャン「サンテティエンヌ大聖堂」1835年に破壊。
㉟トゥール「サン・マルタン大聖堂」 1802年に破壊。
㊱サント「サン・チュートロープ大聖堂の身廊」1803年に取り壊し。
㊲「クリュニー修道院」1810年に破壊9/10。
㊳「シトー修道院」1791年に取り壊し。
㊴「クレールヴォー修道院」 1812年に取り壊し。
㊵「ジュミエージュ修道院」 1802年から 1824年に破壊。
㊶ソワソン「サン・ジャン・デ・ヴィーニュ修道院」1809年に取り壊し。
㊷フレーヌ「ベルニー城」1808年に取り壊し。
㊸「オルセー城」1798年に取り壊し。
㊹マルセイユ「ノートルダム・デ・アクル教会」1794年に取り壊し。
㊺マルセイユ「サン・ヴィクトル修道院」1794年に破壊 。
「でも・・」僕の『破壊行為の歴史Histoire du vandalisme』をペラペラと見ながら言った。
「そんな猛烈な数の跡地はどうなったの?荒れ地になったわけじゃないでしょ?」
「ん。大半が都市部だからな。フランス革命に漁夫の利を狙ったブルジョアたちのものになった」
「なんか釈然としない話ね」
「ん~僧侶と貴族たちの独占専横が長かった・・そのしっぺかえしだな。利害が反転したわけだ」