小説日本国憲法 3-11/御行幸
3月18日の預金封鎖の翌日から、昭和天皇の全国巡幸が始まった。
第一回目ご巡幸の朝、陛下は皇居を御料車で出発。MPのジープが先導した。
別の車に松平慶民宮内大臣。藤田尚徳侍従長らが乗った。向かったのは神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場である。同工場は化学肥料を生産する工場だった。
鹵簿と呼ばれた物々しい隊列の御行幸と打って変ってMPジープ一台・御料車(ベンツ)と随行者の車、三台だけの巡幸だった。車は15号線を走った。多摩川を越えて、川崎の家内工業地域を抜けた。同地は米軍の空爆によって焼け野原になっていた。陛下は車上からどんなお気持ちでそれをご覧になったのか・・
昭和電工川崎工場も例外ではなく空爆を受けていた。事務所は全焼し、テントを建てて業務を続けていた。同社社長・森暁は、社員20名ほどと共に、焼け崩れた正面玄関で陛下をお迎えした。全員が硬直するほど緊張していた。
米兵が多数、周辺を固めていた。
御料車から降りられた陛下はソフト帽に背広と云うお姿だった。森暁は深く一礼し、自己紹介をした後、陛下を工場へご案内した。
視察後、正面玄関を通ろうとしたとき、陛下は足を止められた。そして並んでいた社員の一人にお声をかけられた。
「何年勤めているか」
声をかけられたのは、同工場で農業用濃硫酸係をしていた安藤義雄氏だった。
「5年ちょっとです」安藤氏が答えた。
「生活は苦しくないか」
「何とかやっております」
「あ、そう。頑張ってください。」
天皇と一般国民が声を交わした最初だ。以降、陛下は「あ、そう」という言葉をよく使われた。後日流行語にもなっている。この「あ、そう」と云う言葉には、陛下の民を思う気持ちが精一杯込められていたのではないか。筆者はそう感じる。他の言葉に代え難い思いが有ると。
後日、安藤義雄氏は談話を残している。
「通り過ぎられたと思って顔を上げると、陛下と目が合いました」
「その日の朝、工場内放送で(巡幸を)知らされました。まさか、お声をかけていただくとは夢にも思いませんでした。目と目が合ったときは、どきどきしました。夢を見ているようだった」
天皇はさらに数歩進むと。並んでいた女子事務員にも声をかけられた。
「何年勤めているのか」
「生活はだいじょうぶですか」
声をかけられたのは佐久間信子さんだった。彼女もこんな談話を残している。
「“はい”と答えるだけで、もうドキドキして、ぼーっとしてよく覚えていません。負けたのだから仕方ないと思いましたが、MP(米軍憲兵)や見物の米兵が陛下の目の前を横切ったりして失礼ではないかと憤慨したのを覚えています」
この後、日産重工横浜工場も視察し、正午過ぎに神奈川県庁へ入った。
横浜市内県庁周辺は、神奈川県警と第八軍米軍が物々しい警戒網を張っていた。
お迎えしたのは、内山県知事だった。陛下は県庁内を視察した後、県庁屋上から、焼け爛れた市内の様子をご覧になった。
そして市内の戦災者用のバラック住宅を訪ねた。
そこでは被災者に「これでは寒いであろう」と声をおかけになっている。
「はい、大変寒うございます」被災者は答えた。
第二回目のご巡幸は翌日2月20日に行われた。横須賀市にあった浦賀引揚援護局を訪問された。久里浜までは鉄道を使われた。
同日、浦賀引揚援護局には、パラオ諸島から復員した宇都宮歩兵第五十九連隊を中心とした将兵がいた。五十九連隊は、第一大隊がアンガウル島で玉砕、第二、第三大隊はパラオ島で終戦を迎えたが、高崎の歩兵十五連隊の一部をふくむ550人はそのままコロール島の清掃作業に従事したため復員が遅れた。そしてようやく1946年2月17日に復員したのだった。
陛下をお迎えしたのは彼らだった。彼らは軍服姿だった。援護局の担当者が軍服姿は止める様に説得したが、連隊長江口八郎はこれを拒否。
階級章をつけたままの彼らは宿舎に整列して陛下をお待ちした。
そして陛下がいらっしゃると、江口は挙手の礼をしたのち上奏文を読み上げた。
「臣、八郎、歩兵五十九連隊連隊長としてパラオ諸島に転進、祖国防衛の任に当たりました。将兵は困苦欠乏に耐え、団結して最後まで米英撃滅のため戦って参りましたが、股肱輔弼の任を全うすること能わず、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない状況に立ち至りましたことは、誠に申し訳なく慚愧の至りであります」
陛下は沈痛な表情だった。「あ、そう」と相づちを打たれた。
そして上奏文が読み終わると、陛下は兵士の間を歩まれて声をかけられた。
このとき、侍従が連隊副官に小声で「米英撃滅ということばは慎まれるように」と注意した。周りにはMPや進駐軍関係者、米国人記者などが多くいたからだ。 結果としてみると・・海外から復員した約300万人のうち、陛下が直接報告を受けたのは、このときだけになった。
この陛下の全国巡幸は、さまざまなエピソードを生んだ。 1947年12月7日、昭和天皇は被爆地、広島市に入られたときのことである。宮島口から市内に向かう途中、五日市で広島戦災児育成所に立ち寄られた。これは陛下の希望だった。新聞でこの施設に入っている「原爆少年僧」の記事をご覧になったからだ。同施設は、原爆で孤児になった子らのために真宗本願寺派僧侶、山下義信氏が私費を投じて開設したものだった。84人の孤児が引き取られていた。そのうち5人が得度し僧侶になっていた。 この記事を新聞でご覧になった天皇が「広島市に入る前にぜひ声をかけたい」と希望し、立ち寄られたのである。
広島戦災児育成所に到着すると、陛下は整列する子供たちの前に進まれた。一人が原爆で頭髪が抜けた子供を抱えるようにして天皇にお見せした。天皇はその子の頭をなで、目頭を押さえられた。側近や報道関係者たちは水を打ったように静まり返った。
陛下は「しっかり勉強して頑張ってください」と激励された。
そして陛下は広島市内に入られた。歓迎場は護国神社跡地である。約七万人が陛下の到着をお待ちしていた。陛下到着と共に平和の鐘が鳴り、君が代が合唱された。そして万歳の声が上がった。
このとき、天皇は終戦以来初めてマイクで直接市民に語りかけられた。
「広島は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、世界平和に貢献しなければならない」
静まり返っていた群集が大歓声を上げた。そして万歳万歳の声が怒涛のように広がった。
天皇陛下は、黙って端整に立ったままその声を受けた。
陛下の立ち位置からは、正面に半壊する広島県物産陳列館が見えていた。後の原爆ドームである。ちなみに原爆ドームが国の史跡に指定されたのは1995年。ユネスコの世界遺産に指定されたのは1996年12月5日。50年以上の時を経てからである。
さて。この全国巡幸が何れの地でも大歓迎だったことに恐れをなしたのはGHQ民政局だった。18日の預金封鎖と肩を並べるように始められた御行幸だが、金融封鎖について思いの外、騒ぎがないことが確認されると、天皇陛下が全国を行脚することへの疑問がGHQ民政局の中に生まれてきた。
最初は、本来戦争責任者である天皇に、各地で非難の声が上がるだろうとGHQは読んでいた。そのために米軍兵士による警備体制も敷かれた。しかし騒ぎになったのは京大へ出向いたときである。あとは全て順調に歓迎を受けている。
鈴木正男はその著「昭和天皇の御巡幸」で以下のように書く。
「原爆が投下された広島市民は天皇を恨んでいなければならないと(民生局随行員)ケントは思った。しかし、市民は熱狂して天皇を迎え、涙を流して万歳を叫ぶ。天皇制廃止論者のケントは怖くなった。このままご巡幸を続けてると、天皇制はますます確固不動になる。ご巡幸をやめさせねばならないとケントは考えた。」
残念ながら、この「ケント」なる人物の存在も所属も、筆者は傍証出来ていない。もしご存知の方がいらしたら、ぜひご教授いただきたい。
しかし、当時、侍従だった鈴木菊男東宮大夫も「民政局はご巡幸で天皇の権威が復活するのを恐れていた」と証言しているので、GHQの中にそうした気持ちかあったことは間違いないだろう。
この広島訪問後、すぐさまGHQは宮内府の機構改革と首脳の更迭を指示した。その結果、宮内府長官、侍従長、宮内府次長の3人が辞職。巡幸は実行できなくなった。
しかし「陛下全国巡幸中止」の記事が新聞に載ると、全国から膨大な量の巡幸復活の嘆願書が、GHQ/政府/宮内府に送られるようになった。この声に押されて御行幸は2年後の1949年5月より再開された。鈴木/徳川侍従によると「陛下も直接、マッカーサーに復活を願われた」とのことだ。
巡幸が復活すると、天皇は最初の訪問地として九州地方を選ばれた。そして5月27日、長崎を訪問されている。
巡幸は29年の北海道を最後に終わった。沖縄には行ってない。当時まだ沖縄は米軍の統治下に有ったのだ。それでも最後まで、陛下は沖縄への巡幸を果たさねばと気にかけておられたという。沖縄への御行幸は今上天皇がご遺志を継いで果たされている。
昭和天皇の全国巡幸、全行程33,000km。1946年から1954年まで。 巡幸にはお召し列車と御料車(メルセデス・ベンツ・770)が使われた。