ナダールと19世紀パリ#08/ポーランドへの密偵として
ナダールの義勇軍行軍は参戦もないまま終わった。ナダールは追われるようにパリへ戻った。しかしナダールは挫折しなかった。これがまた彼らしいところだろう。
街へ戻ると、ナダールは口角泡を飛ばし懸河之弁に奔った。ポーランドの危機を、人々の集まるカフェで熱く語った。いまにも再出発しそうな勢いだった。
そんなナダールがオペラ座の近くにあったディバンという文学・政治カフェで熱弁をふっていたとき、近づいてきた男がいた。エッツエルという。仏外務省の官房長官である。
彼はナダールを庭に呼び出すと、今度はロシアが本格的に動き出したと言った。そしてその様子を密偵として探ってほしいと言った。ナダールは快諾した。
すぐさまその場でエッツエルは旅費として1000フランをナダールに渡した。そして月々600フラン支給しようと約束した。ナダールは舞いあがった。
エッツェルは「フレデリック・アークという偽名で画家として潜入するように」そして「手紙という形で私へ個人的に報告書を送るように」と詳細な指令をだした。ナダールは夢中になって頷いたにちがいない。
ナダールは密かにパリを出発した。
ケルンに着いたのが6月11日。ここからベルリンを経てポーランド/シュテチンへ。街へ着くとすぐさまナダールはフランス領事館を訪ねている。ところが領事に会うと、彼が大笑いをした。「ロシアが動いているって!夢でも見たのか?」ナダールはキツネにつままれたようだった。実は、領事はエッツエルから「ナダールという熱血漢が訪ねるから適当にあしらってくれ」と連絡が行っていたのだ。
当時パリは、7月王政打倒に向けて二月革命で共闘した臨時政府側と労働者側が、まっこうから衝突していたのである。ポーランド独立を叫んでいナダールだが、視線がこの対立へ向けば、労働者側に付くのは日を見るより明らかだ。エッツエルはナダールの命を惜しんだ。実は彼を守るための大芝居だったのだ。もちろん、ナダールはそんなことに気がつくような男ではない。シュテチンの領事館を出た後も、ナダールはポーランドを歩きまわり、熱心にエッツエルへレポートを出し続けた。
そして6月23日。パリでは臨時政府と労働者の凄まじい市街戦が始まった。4日間で25,000人が逮捕。死者は3035人。騒乱後は政府側によって容疑者狩りが執拗に行われ、疑わしいとされた者は、碌な裁判も受けないままアルジェリア流刑にされるという惨事になった。エッツエルは、その動乱から完全にナダールを守ったのだ。
ナダールは7月の終わりにエッツエルへ「ロシア侵攻は誤報である」というレポートを送っている。「では帰国せよ」という通達がエッツエルに届いたのは8月の終わりだった。
こうしてナダールは、そろそろ秋の香りが漂うパリへ戻ってきた。
パリは、労働者側を完全制覇したカヴェニャック将軍が軍事独裁政権を握り、表面的には平静に戻っていた。世間の関心はすでに対立から12月の大統領選へ向いていた。英国からも、後のナポレオン三世・髭の小男ルイ・ナポレオンが戻っていた。