勝鬨新古細工#02/業と縁のアラベスク
八九歳になる母の定期健診に付き添って、築地の聖路加へ出かけたときである。かなり足腰は悪くなっていた。杖つけば独りで歩けるのだが、最近は、なるべく手を繋いで歩くようになった。実はそうするようになってから、母は急速に柔らかくなった。気丈に独りで生きてきた人だから、九〇近くなって八〇年ぶりに息子と手を繋いで歩けるのが、秘かに嬉しいらしい。こんなことで「折れること・委ねること」を受け入れてくれるならば、これほど嬉しいことはないと思う。
ま。それでもコロコロとヘルパーさんは勝手に変えちまうんたけどね。
家からタクシーで聖路加へ出て、母が検診を受けている間、僕は一階のスタバの前で本を読んでいる。船戸与一の満州国演義の九巻だ。これが彼の絶筆になった。時間はあっという間に経った。
「終わったよ」と来た母とそのまま昼食に出た。トゥットベーネである。
母はピザが好きなんでね。此処にした。
「いいねぇ」と喜んでいた。
食事をしながらニューヨークに住んでいるムスメたちの話になった。下のムスメの結婚式に行けなかったことが、相当悔やまれているらしい。
「さやかはどうなんだい?やっぱり外国でやるのかい?」
「そういう話になりゃ、まあ、そうだろうな。」僕が言うと、母から後の言葉は出てこなかった。
母はムスメたち二人が日本で暮らすつもりのないことが分かっている。僕たち夫婦も、どこかのタイミングでニューヨークへ生活の場を移すことも分かっている。だから色々考えることも多いのだろう。
父は、自分がアメリカ本土勤務になれば、母は一緒に来るもんだろうと思っていたようだ。母は猛烈に逡巡していたらしい。それでも第一生命ビルから勤務地が横須賀に替わったとき、母は幼児の僕を連れて、父と共に佃から横須賀に引っ越しをしている。しかしそれでもまだ、父と共にアメリカへ移ることは迷っていたという。母が二七才の時である。・・若い。父は35才の働き盛りだ。
当時の資料を調べると、母と父のようなカップルは、五万人から10万人有った。米軍は、兵隊が日本人女性を伴って本土へ戻ることを、最初は禁止していた。
ドイツ侵攻のときにも、大量のドイツ人女性と米兵のカップルが誕生し、本土へ連れて帰ったがために大混乱が発生していたからだ。こうしたカップルのことを「戦争花嫁War Bride」と呼ぶ。
日本で戦争花嫁を伴って、米兵が帰国することを認められたのは1952年2月からである。
しかし米国本土に渡った日本人花嫁への差別と風当たりは、ドイツ人花嫁どころではなかったようだ。人によっては半年もしないうちに逃げ帰ってきていた。母は、横須賀で父と暮らしていた時期に、そんな話をイヤというほど聞いていたという。
でもいま・・こうやって、孫二人が生活の場をニューヨークとして、そして息子夫婦も何れはニューヨークへ戻るつもりでいるのを前にしてみると、色々と感慨深いようだ。
「やっぱり、あのときアメリカへ行ってたほうが、あんたにも孫たちにもよかったのかねぇ・・」母がため息をつくように言った。
「もし行ってたら。俺が結婚する相手も変わっていたろうし、いまの子供たちもいないよ。」
「そうだね。そういや、そうだ。」
人生は、”縁”を横糸に・”業”を縦糸に織り成すアラベスクのようなものだ。ただひとつの模様が変わっても、それから先に紡がれるものは全く別物になってしまう。そこに由しも悪しもない。ただただ違うものになってしまうだけなのだ。
“縁”は”業”を孕み、”業”は”縁”を紡ぐ。
それが生きていく、ということだ。決断して居ようがして居まいが、人生というアラベスクは時と共に織り成されていく。そしてその織り成されたアラベスクから、次代の“縁”と”業”が生まれ、連々と繋がる命の環が重なっていく。
あの時。母が何度も何度も民生局に呼び出されながらも、ノラリクラリと逃げ続け、「今のままじゃ寡婦手当は出ないぞ」と脅かされても渡米しなかったことが、いまの僕の人生・ウチのムスメたちの人生を決めた。僕らにできることは、これを受け入れ感謝することだ。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました