新川酒飲み散歩#02
マーケットが巨大化すれば、リスクはそのまま利益に歩成りする。江戸が徳川幕府の拠点として急成長すると、商いは急速に海上輸送が中心になった。菱垣廻船の時代になる。
これに対抗して伝法船問屋が大坂二十四組問屋から離脱して独自に樽廻船を始めたのが1730年(享保十五年)である。当然、菱垣廻船/樽廻船はコンペチターになった。
「菱垣廻船はな。荷物が満杯になるまで出航しなかったんだよ。だから平気でひと月ふた月は接岸されたままだったんだ。これじゃ酒屋は困る。酒は生ものだからな。夏場なんぞはあっという間に酢っかくなっちまう。それなんで、江戸側に作られた問屋、問屋十組・・と言ってもホントはもっとあったんだが、その中の酒店が手を組んで始めたのが樽廻船だった」
陽が沈み始めた新川の町を歩いていた。明正小学校の横を前に見て銘正通りを右折。公園を横に見ながら歩いた。夕闇と土曜日なこともあって、どのビルも暗かったが、この辺りは相変わらず酒関係の企業が集まっている。
「ふうん。お酒専用の運搬船だったのね」
「ああ、最初はな。でも何しろ早いし運賃も安いので、他の荷役を扱ってる連中も、しまいに俺も俺も利用するようになったんだ。あっという間に樽廻船は菱垣廻船のコンペチターになっちまった」
「でも同じ海路なんでしょ?なんで安くできたの?」
「いいトコつくね。サイズと人区だ。船が小さかったんだ。乗員も少なかった。小回りが利いたんだ。何しろ最初は酒樽運ぶだけが目的だったからな。独立分離したときは菱垣廻船160艦に対して樽廻船は106艘だった」
「同じくらいの数あったのね」
「ああ、それだけ比較的造船と事業化が簡単だったということだ。それに取扱い品目にバラツキが無ければ管理はしやすいしな。ストックヤードの形状も専用の形状にできた」
「菱垣廻船は軽くて小さくて軽快快速だったのね」
「うん、そのおかげで樽廻船の中には菱垣廻船のほぼ半分の日数で運ぶ業者も出て来るようになった」
「大きな貨物船に対して、小さな荷物を運ぶ小さな貨物船がいっぱいできた・・という感じ?」
「うん、そんなイメージだ。でもそうなると樽廻船の方も悠々と構えていられなくなった。なにしろ価格差があるからな。安いほうが良いという問屋が次々に出てきたんだ。おかげで港じゃトラブルが絶えなかった」
「組合があっても?」
「うん。現場でキレイごとは通用しない。船頭だからな。荒っぽい奴が多い。樽廻船が独立した当時は、米/糠/藍玉/灘日素麺/酢/醤油/阿波蟻燭は菱垣廻船の専有物で、樽廻船は載せないという協定があったンだが、次第に守られなくなっていった。なにしろ早い安かったからな。力で押さえたってそうはいかない。実は江戸時代って、今並みに‥いや今以上に自由経済で自由競争だったんだよ。良いものが勝つ時代だったんだ」
「封建時代なのに?」
「あぁ、政治的にはな。でも経済は広く自由競争が許されていた。お上は、あまり経済には興味がなかったんだ。ぶっちゃけていうとな」
「そうなんだ」
「だから組合を作って利権を守ろうとしたんだが、それだって別に武力を背景にしてるわけじゃないから、それほど強圧的じゃない。綻びは出る。それで仕方なく菱垣廻船業者と樽廻船業者は1770年(明和7年)1772年(安永元年)と協定の見直しをしたんだ。しかしこれも結局はザルになっちまったんだ。樽廻船業者が圧倒的に優位になって行ったんだ。数も圧倒的に増えたしな。
そこで始まったのが、廻船業者間の競争だ」
「競争?」
「ああ、弘化年間の頃からだ。菱垣廻船は比較的軽い綿類を同じくらいの重さを積んで船足の早さを競った。年に一回な。同じく樽廻船業者も新酒番船競争というのをやった。こいつには何れの船主も夢中になってね、あっという間に大行事になっんだ」
「でも船足は樽廻船が早かったんでしょ?」
「ああ、だから人気は樽廻船業者がやる新酒運搬競争のほうがあった。
レースは毎年初冬で、前の年の冬に作って寝かしておいた寒造りを出荷前に、出来立ての新酒を使って行われたんだ。作りたてで、まだ味は整っていないが香りが高い、その年の清酒だ」
「ボジョーレ・ヌーボー??」
「あはは。まさにそうだ。最初は9月の初めに行われた。ほんとにほんとの出来たてだ。まあ、でもだんだん売るならもう少し美味いほうがいいんじゃないの?ってンで、だんだん開始時期は遅くなってったんだ。1823年(文政6年)に行われた時は12月5日だったという記録が残ってる。このくらい置けば、ヌーボーでも飲めるようになってたんだろうな」
柚木学の「酒造りの歴史」に拠ると、新酒番船競争は1702年(元禄15年)から始まったとある。
競争結果の記録があるのは1790年(寛政2年)から。参加廻船業者は西宮から3艘、大坂から4艘だったとある。7艘は先ず西宮に集結し、11月6日にスタート。江戸入津は4日後の10日巳ノ刻(午前10時)。1着は大和屋三十郎船(大坂)。2着は紹屋十次郎船(西宮)。3着は吉田弥三郎船(大坂)と藤田甚蔵船(西宮)。4着は木屋常蔵船(大坂)。5着は上念仁右衛門船(西宮)。6着は鹿島増次郎船(大坂)だったとある。
どれほど賑やかだったか?西村真次の『日本文化史点描』から見てみよう。
・・出帆前、港では極印元/大行司/問屋が集まり、航海安全の御祈祷が船ごとにもたれた。それがすむと先を争って綾を解き出帆、人々は喚声をあげ鐘や太鼓で難したてながら船を送りだした。
廻船問屋は、この出帆を見届けると、早飛脚を立てて江戸の問屋に知らせた。
通常は10日ほどかかる航路だが、このときばかりは4日程度で走りきる。決勝点は品川沖だ。到着すると船はすぐさま伝馬船を出し、新川にある問屋へ到着の報告をする。その着順が。同じく早飛脚で大坂三郷大行司に知らされた。
1番船には祝儀がでた。そして廻船問屋には1年間の特権が与えられた。
一方、江戸の問屋では番船が全部揃うのを待って、行司や年寄たちは夫々の番船へ赴いて刑酒をして、中から御膳酒を撰んだ。この時、瀬取船は「大茶船」の旗を立てて番船に横付けした。船上で送り状通りに荷を仕訳けすると、瀬取船に積み込むが接岸してもすぐ荷揚げは許されず、次の合図の旗を待った。旗は各問屋の陸揚げ準備完了を見届けてから瀬取行司が新橋中之橋から振った。この旗を合図に、順々に湊橋へと船は移って行った。そして新川の堀端に並ぶ問屋の前から歩み板を渡し、菰被りの酒樽を転しながら陸揚げした。実はその早さも競いあった。これを欄干から対岸から江戸っ子たちは群がって見物し、ヤンヤヤンヤの歓声を送った。
同じ頃、新川の酒問屋主人たちは深川の料亭「平清」で寄合いを開いている。初相場を建てるためだ。
同時に酒樽が運び込まれた新川堀端の酒庫では、入荷の青い旗を立て得意先へ「配り酒」を始める。「配り酒」を受け取った小売店は早速出入りの屋敷/町家まで「新酒でございます」と配り歩いた。
「江戸時代には新堀川/新川の両岸に白壁造りの酒庫がいっぱい並んでいたんだ。新川は先の大戦で焼け落ちた家屋の残骸で埋められちまって消えてなくなったがな‥当時は壮々たる姿だった。酒庫には蔵手代がいて、買手が来ると酒庫に同道して好きなだけ試飲させて10駄で何両と値段を決めていた。デカい商売だったんだよ」
新霊岸橋の欄干に立ちながら葦叢深い河岸を見つめながらそんな話をした。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました