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エスプレッソとグラッパと雪
前職のとき、香港には幾度となく出かけた。うちの支店がマカオに有ったから、その流れで香港に行くことが多かったのだ。定宿は湾仔のホテルだった。仕事が終わってから、接待がある夜は色々なところへ出かけたけど、それがなければ夜はいつもホテルのレストランとbarで済ませていた。実は"食と呑み"について、僕はきわめて保守的でして、一つの街でのネタは2~3軒あれば充分なんです。だから香港でも、行きつけのホテルとbarは、いつも同じところだった。
一度、香港で大雪に遭った。打ち合わせを早々に終わらせて、接待は次回という話にしてホテルへ直帰した。そして部屋で電話を幾つか、メールを幾つかしてから一息ついて、一階のラウンジへ降りた。
雪のせいだろうか、客はまばらだった。barカウンターに腰かけてマティーニを頼んだ。
「おや、スクリュードライバーじゃないんですか?」...
バーテンのジョ二―ーがお茶目に言った。
「あれは、客がいるときだけな。」僕が言うと彼が笑った。
ジョニーとクラーク・ゲーブルの話は、僕がいつも接待の時に使うネタだ。
美しい所作で、マティーニが出来上がる。僕の目の前に供された。それは安寧の象徴だ。口にした。鮮烈な爽やかさだった。でもいつもよりドライじゃないような気がした。
僕が、ちよっと小首をかしげて彼を見ると
「今夜は雪ですから」ジョニーは微笑みながら言った。
雪の日は、いつもより優しいマティーニ。ジョニーの気配りが嬉しかった。
その時、ロングファーの麗人がカウンターに座った。黒髪の女性だった。30半ばだろうか。彼女は人差し指を立てると「エスプレッソ」と言った。
「かしこまりました。」ジョニーがウェイターに合図した。エスプレッソは、さすがにバーカウンターの領分ではない。レストラン側である。
ほどなくしてエスプレッソが彼女の前に置かれた。彼女は小さくウェイターに微笑むと、実に優雅にカップを手にした。
見ず知らずの妙齢の女性を見つめるのはマナー違反だと判っていたが、その所作から僕は目が離せなかった。指先がバレーのように舞う。それはまるで"女性"という文化の集成のように思えた。
そしてエスプレッソを飲み干すと、もう一度人差し指を立てた。
「グラッパを。」
「かしこまりました。カップに注ぎますか?」ジョニーが言った。
「ええ。おねがい」愁いを含んだような一言だった。
ジョニーがエスプレッソカップにグラッパを注ぐと、彼女はそれをワイングラスのように回した。そして一気に飲み干した。僕は思わず息を呑んでしまった。
それに気が付いたのだろうか。彼女が僕を見た。そして微笑んだ。
「今夜は雪ですから。」
そう言うと、来た時のように颯爽と席を立った。考えてみると、ロングファーは最後まで着たままだった。
「・・雪・・か。」彼女の後姿を見つめながら、僕は呟いた。
ジョニーを見ると。グラスを拭きながら、いかにも可笑しそうにしている。
「こんなことは、そうないですからね。パッと何か、気の利いたことの一つも言えたほうが良いんですがね・・」
そりゃそうだ。映画ならね。でも現実にはムリですな。
かっこいい男にゃ、そうそうなれないモンだ。
僕はその夜。ジョニーを相手にシコタマ酔っぱらった
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