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ナダールと19世紀パリ#07/ポーランド独立戦争義勇兵として志願する

ナダールは、父の血を継いだ熱烈な共和主義者だった。聊か軽いところはあったが自由を信奉する熱い血を持っていた。飄々と溌剌と世間を渡り歩く彼に好感を持つ人は多かった。
そのナダールが突然ポーランド独立戦争の為に義勇兵として戦地に赴いたのは1848年5月28才の時である。

ポーランドは激動のさなかだった。
ナポレオン下で生まれたワルシャワ公国(1807)は、ナポレオンが失脚すると同時に解体されワルシャワ立憲王国となり、ポーランドはプロイセン/ロシアのものになっていた。1830年圧政に喘ぐ人々が蜂起するとプロイセン/ロシアは徹底的な弾圧/血の粛清を行った。ワルシャワは血に染まった。それでもポーランド独立を叫ぶ人々の声は収まらなかった。戦いは地下へ潜り連々と続いていた。

1848年3月、そのポーランドの独立を助けるために義勇軍が生まれた。そこにナダールが志願したのだ。ナダールによると、義勇軍はポーランドからの亡命者あるいは亡命者の息子たちが300人そしてフランス人200人で組成されたとある。その資金は何処から出たか?二月革命で誕生した第二共和国臨時政府だった。しかし実際はラマルチーヌAlphonse Marie Louis de Lamartineからだったらしい。
ナダールはこう書く。
「ストラスブルグまでは,日に一フランと宿泊券が支給され,その後は自分たちで何とかしろ、ということだった」なんともはや心意気ばかりの貧乏義勇軍だったわけだ。
それでも何とかプロイセン領のミンデンまでは進軍したのだが、ここで全員が逮捕。全員そのままフランスへ強制送還になった。・・なんとプロイセン側が優しかったことか!・・もちろん、というわけではない。たまたま彼らの進軍と重なって、フランス政府は腐拡充宣言を出しており、ナダールの義勇軍はフランス軍と見做されず、ただの「坊っちゃんたちの血気逸った暴挙」と見做され、追い返されたのだ。プロイセンとしても、彼らをフランス正規軍と見做し、フランスと事を構えるつもりがなかったからだろう。
ナダールは憤慨と屈辱に塗れながらパリへ戻った。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました