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星と風と海流の民#16/テマセク(海の民)と呼ばれたシンガポール01

シンガポールで英国支配以前の遺跡を探すとなると、思いつくのはフォートカニングの丘にあるFort Canning Archaeological Dig Siteくらいしかない。フォートカニングの丘は、古くから「マレー王の丘Malay Kings' Hill」と呼ばれていた。此処に朽ち果てた遺跡と遺物があったからだ。それはテマセクの王だったスルタンの王宮だろうと言われてきた。
本格的な調査発掘か始まったのは1984年。John Miksic博士がシンガポール大の学生と行っている。彼らは、タイ南部の陶器や中国広州の陶磁器、江西省の磁器。そして宋代の貨幣などを発見した。現在はその一部がFort Canning Archaeological Dig Siteとして公開されているのだ。

シンガポールの旧名・テマセクTemasekはサンスクリット語が語源だ。
Tamasは「海」を指す。Sekは「町あるいは「民」を指す。テマセクは「海の町」と言う名前だ。
この町をその名で呼んだのはシュリーヴィジャヤ王国Srivijaya Empireの人々だった。
シュリーヴィジャヤは、スマトラ島パレンバンを中心とした国家だ。彼らはマラッカ海峡を制圧していた。そして海上貿易を独占し、7世紀から13世紀の頃に大いに栄えた国だった。
彼らはオーストロネシア語族だった。使用していた言語は原マレー語が中心だったが、信仰の中心はブッディズムだったので、サンスクリット語が聖なる言葉として多用されていた。スマトラなどで見つかる遺跡遺文は、サンスクリット語が多い。王の名前・町や土地の名前・宗教的なものを記したものは、大半がサンスクリット語だ。

おそらく、シュリーヴィジャヤが国家として成立した理由は、西側・南インドにチョーラ朝Chola Dynastyが有ったからではないか。力関係としてはフェニキア人(レバント人)とメソポタミア人との関係に相似しているように思える。
チョーラ朝はタミルナードゥ地方から始まり南インドへ拡大化したタミル系の民族だ。タミル人と南インドの関りは古い。チョーラ朝は典型的なタミル文化の国である。そのチョーラ朝が、巨大化すると共に東の土地との交易を求めていた。彼らが欲しがったのは、乾燥魚などの海洋資源であり、マレー半島やスマトラ島に埋蔵されている金銀など鉱物資源、そして香料だった。そして、その仲介に入ったのがマラッカ海峡の海洋民族だった。シュリーヴィジャヤ王国は、こうした海洋民族が集結して、国家へと形作られていったのである。
したがって当初から造船技術は優れていた。そして乾燥魚など海産物を交易品としていた。しかしタミル人たちが求める交易物はそれだけではない。そのため、自然と多種な民族が集まる小国家制へと進化したに違いない。それがマラッカ海峡を独占し、海洋貿易を独占し、最後はシュリーヴィジャヤという王国へ姿を整えたわけである。

私ごとだが、僕のシンガポールのアパートは、ダンジョンバーガの東の外れ45階建てのビルに有った。
南の窓からはマラッカ海峡が一望できた。無数にタンカーが停泊し荷物を卸す巨大な桟橋が見えていた。金融都市と言われながらシンガホールの産業の半分は交易のためのハブが占めている。その事実が毎日僕のアパートの窓から見えていた。
これが深夜になると、しばしば雷雨に見舞われる。雨のないときも、唐突に巨大な雷が空を走った。
僕の寝室は窓側にベッドを置いていた。ベッドの頭部は窓に押し付けていた。窓は天井まで届く広さだった。ベッドに入ると、僕が見える景色の全てが空になった。その空に毎夜、突然痛烈に光り、無数の雷が奔るのだ。
ベッドから起き出してマラッカ海峡を見つめると、漆黒の海にときおり光の棒が刺さる。雷音までは届かない。沖合のタンカーに落雷するのかもしれない。多いときは何本も何本も光の棒が海上に刺さるのが見えた。

きっと1000年前のマラッカ海峡も同じだろう。スコールと雷雨は毎夜この海を覆っただろう。そして彼処に隠れた暗礁が往く舟の海路を阻めていたに違いない。僕はいつも深夜の雷光の中に、テマセクTemasek「海の民」の姿を幻視した。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました