本所話欄外書き込み/ナメクジと白石さんチ#02
なので「辰巳っぷり」と「江戸っ子気質」の違い。「侠・きゃん」と「任侠・やくざ」のちがい。「職人掘りと博徒彫り」の違いは、言葉を並べただけじゃ「目鼻のないアメンボーを並べたよう」な話になっちまうな・・と思った。
で。大川畔に生きた白石さんチの話を傍例として書いてみたいと思う。
思い出しながらダラダラ書いちゃうから、つまんねぇなと思ったら、この「本所話欄外書き込み」の項はスルーしてください。#^o^#
僕の母方「白石さんチ」は、碓氷郡安中の郷の人である。農家ではなく武家だったと聞く。明治の御代、一族の一人が青雲の意志をもって上京した。そして製本業を小石川あたりで営んだという。つまり東京に渡ってからは代々製本屋を生業としたらしい。取り扱い書は英文のものが多かったらしい。戦前では珍しかったと思う。それもあって小石川で生まれた祖母は英語を能くしたらしい。おきゃんなひとで、それが走りすぎて我が強いことが多かったという。9人の子を為した。僕の母はその8番目の子だ。
後年、母が父と一緒になってから、二人が英語で話していると面白くなくて、よく嘴を突っ込んでいたという話を佃の叔母から聞かされた。
「なにしろおばーちゃんはお嬢様だったからね、話の中心が自分じゃないと面白くない人だったのよ。しまいに小石川の肇(長男)と喧嘩して、あっちを飛び出してウチへ転がり込んできてからも、しばらくは白足袋に着物だったわね。」叔母の云う"ウチ"というのは佃の母の処で、叔母夫婦も二人で"ウチ"ヘ居候していた。
母は昭和元年の生れである。母は幼児期から青年期/嫁ぐまで小石川で過ごした。嫁いだのは戦時中のど真ん中、中野の旧家だったという。母はその嫁ぎ先で猛烈にイビられた。製本屋の娘である。それも洋書を手掛けている製本屋だ。母は近在の女学校へ通いながら自力で英語を勉強しタイプを習得していた。要するに英文学少女だったのだ。
「家にね、オリベッティがあってね。おじぃちゃんが気まぐれで買ったみたいなのよ。それが私の若いころの玩具だったわね」と母から聞かされたことがある。そのオリベッティは、しばらく母の家の押し入れの奥に眠っていたことを憶えている。
そんな洋風の娘が、中野の郷の旧家の姑に気に入られるわけがない。終戦の日、母は荷物全部置いて小石川の実家へ駆け戻ったという。その話は、佃の叔母(6番目)によく聞かされた。
「玉音放送があったのよ。それが何言ってるンだか、よくわからなくてね。でも隣組の人から、どうやら戦争が終わったらしいって聞いてね、さぁて明日からどうなるんだろうと思ってたら、翌日の朝、工場にのぶ子(母のこと)がいたのよ。あ、戦争に負けるってぇコトは、こういうことなのね、と思ったわ。・・私もそうしよう!と思ったわ」
叔母は、母に触発されて家を飛び出して版画の世界へ飛び込んだと言っていた。
「おじいちゃんはね。アタシがそう言うとたいして反対しなかったのよ。まあ新時代だから。おんなじ印刷屋だしなってね。なんだか拍子抜けしたわ。今まで戦火に震えながら我慢して家の仕事を手伝ってたのは、なんだったのよ!と思ったわね」
当時9人兄弟だった「白石さんチ」は、戦争で4人欠けて5人になっていた。
長男が家を継ぎ、6番目の叔父と7番目の叔母が家業の手伝いをしていた。しかし母に触発された叔母が出奔し、続いて7番目の叔父も別に自分の商いを始めた。叔父は本所へ引越しをして、叔母は深川に引越しをした。
母は、父に出会うまで小石川の実家から一生命ビルへ通っていたという。
そして母と父が一緒に暮らし始めたのが元佃だった。僕はそこで生まれた。築地産院である。
ちなみに我が家は娘二人も築地産院で生まれている。