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「あめりか物語」を携えてNYCを歩く

鴎外を別格とすると、やっぱり鏡花・荷風・万太郎が好きだ。
特に荷風が良い。
「好きな作家はね、丹念に書き写すといいです。」高校時代、植草先生に言われたことが有る。それで丹念に何作も書き写した。
その話をしたら、先生が言われた。
「どうして書き写すといいか、判りますか?大好きな作家のコピーにならないようにするためなんですよ。」これって凄いショックだった。
コピーになりたいと思ってたからだ。

実は、大学時代にジャズを演ろうと思って、ある方のところへ師事したことがある。そのときはメソッドがチャーリー・パーカーでね。ひたすら彼のコピーをやらされた。で。巧くコピーできると得意満面にそのフレーズを弾いたりしてね。そうすると先生にエラい怒られた。「お前は、チャーリー・パーカーか! ジャズは声帯模写じゃないんだぞ!」って。。この原体験が僕のその後の人生のオリエンテーションになっているように思う。

その永井荷風なんだけど、NYCで銀行マンをやっていことがある。今から100年ほど昔の話である。
彼は、怒濤の1920年代を迎える以前の旧き良きNYでウォール街に有った横浜正金銀行へ通っていた。すごいねぇ、一世紀近い昔のマンハッタンを荷風は毎日歩いていたんだよ。

この荷風という男。実に偉い奴で、銀行での執務にブツブツ文句を言いながらも、街をふらふら歩き回ったり、オペラを観て歩いたり、酒飲んでオド上げたりして、あの時代のNYCをきっちりと謳歌していたのだ。官費で遊学した鴎外や漱石が、火の玉のように勉強し、日本へ西洋の文化を持ちかえろうと切磋琢磨した時代がほんのちょっと前にあったばかりの時代にだ。荷風は心底NYCで遊び歩いた。そしてブロードウェイでエンリコ・カルーソーを聞き、ワグナーのオペラを観たり、ドビッシーに心うたれていたんだよ。これって、やっぱり凄いことだと思う。

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彼は、この時期に二つの名品を残している。「西遊日誌抄」と「あめりか物語」である。この「西遊日誌抄」の中に、しばしばセントラルパークの話が出てくる。荷風は殊の外セントラルパークが好きだったようで、夕闇迫る公園のベンチで読書した話などを生き生きと描いている。「あめりか物語」の中にも、秋のセントラル・パークを描いた名文が残されている。

この2品は築摩書房刊行の文庫版日本文学全集「永井荷風」に併載されているから、ぜひともあなたがNYCへ行くときにはバックの中へ、この明治の粋人の書いた名文を忍ばせて出かけてみて欲しい。岩波版もよろしい。

荷風と同じようにベンチへ腰掛けながら、遠い昔のNYCを描いた名文に触れると、あなたのNYC体験は更に豊醇な小旅行になると僕は確信する。そしてきっと"時の霞の向こう"から、もうひとつの美しいセントラルパークが、あなたにも見えてくるに違いないと思う。

僕は40代の終りに荷風の見たNYCを訪ねて一年余りだけど、うろうろと街を彷徨してみたことがあった。資料として前述の「西遊日誌抄」と「あめりか物語」そして全集の中に収められている書簡だけを頼りに街を歩き回ってみた。

残念ながら経年変化に強いNYCにとっても、流石にこの100年の壁は厚い。それと荷風自身も日誌に地誌的な資料を残そうという意図が全く無かったもんだから、彼の書いたものからは正確な位置関係がよく分からなかった。彼が何処の飲み屋に出入りしたのか、何処で私娼に出会ったのか、具体的な場所は殆ど知ることはできなかった。しかし実に楽しかった。あの時の体験のおかげで、僕はますますNYCが好きになり、荷風という男が好きになった。

荷風は横浜正金銀行への勤務が決まると、先ず日本領事館に勤務する従兄弟のアパートへ同居をさせてもらった。1905年12月3日のことである。従兄弟のアパートは、当時高級住宅街だった西115丁目にあった。翌年の1月7日に荷風は西89丁目へ越している。彼のNYでの本拠地はこの時からアッパー・ウエストサイドになる。日記や小説の中で描かれているセントラル・パークは、このアッパー・ウエストサイド時代に書かれたものだ。8月になると前述の従兄弟がセントラル・パーク・ウエストへ引っ越しをしてくる。荷風は再度彼の処へ同居させてもらっている。この新しいアパートは目の前にセントラル・パークの緑が見渡せる素晴らしい環境だったようで、荷風の心の琴線を大いに震わせたようだった。

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翌年6月からフランスへ発つ7月までのひと月だけ、スタッテン島のオークウッドに移り住んだことがあるが、荷風はアッパー・ウエストサイドでNYCの日々を過ごした人で有り続けた。もちろん僕の知っているアッパー・ウエストサイドと彼の時代のそれとは天地ほどの差がある。そんなこと判っていてもアッパーウエストサイドに魅せられた者同士として、猛烈に共感をもってしまうのは僕の勝手です。

当時、横浜正金銀行はロアー・マンハッタン、ウォール街にあった。荷風は 89丁目から毎日、ロアー・マンハッタンまで通勤をしていた訳である。残念ながらこの地区を走る地下鉄IND(Independent Subway)は開通が1932年だから、荷風は通勤にこれを利用することが出来なかった。日々の通勤で、彼が何を見て何を思いめぐらしたか。非常に興味あるところだ。もっとも、すぐ近くを走るIRTは1905年に開通しているので、もしかするとこれには乗ったかもしれない。しかし荷風はその手のことには全く興味を示してくれない人なので、何も資料は残っていない。もっとも戦前に麻布の偏奇館から玉の井へ日勤していた荷風はいつも開通したての地下鉄(今の銀座線)を利用していたようだから、意外にも抵抗無くこの新しい交通手段を利用していたのかもしれないと僕は思っている。何か書き残して欲しかったなぁ。

彼は銀行勤務の憂さを晴らすようにチャイナタウンの淫売窟を彷徨い、チェルシーに暮らすフランス人移民者の許へフランス語の勉強に出かけ、コンサートやオペラを貪るように観て歩いた。そんな荷風の青春時代の作品をセントラル・パークで読むとき、きっとあなたは今世紀初頭のNYCが遠い時間の霞の向こうに見えるような、そんな幻惑的な気分になると僕は思う。 

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました