本所新古細工#01/吾嬬神社#01
前稿で書いたが、僕は一時「墨田区民」だった。隅田公園のすぐ近くに、ウチのスタッフが用意したアパルトマンに月に一度乃至ふた月に一度ペースで暮らした。存外肌に合う街で、最初、夜の食事は浅草ばかりだったが、そのうち吾妻橋を渡るのが億劫になって「本所」側で用足すようになった。そのとき、思ったのは市井の人の気質が大川を渡っただけで大きく違うことだった。本所の人は・・深川の人、月島の人に近い。近在の呑み屋で隣り合った人との話も、この町に古くから暮らす人の風合いが有った。旅人の町ではない。
微妙(いみじ)くも家内が言った「その辺のひとは、その辺で生まれてその辺で育って、実家の仕事を継いでその辺で結婚する人が多いの」其の事を追証することが多かった。
ある夜、隣り合った壮齢の人品卑しからぬ方と、何がきっかけだったろうか「吾妻橋が東橋でない」ことの話になった。
「都都逸の文句じゃないが、吾妻橋とは、わが妻橋よですからね」とその方がおっしゃった「まあ、傍(そば)にワタシ(私・渡し)が付いているう♪、というだけじゃないんですよ。我(吾)が妻というのは日本武尊の后、弟橘比賣命のことなんです」
神武東征のことだな・・とは判ったが、細かいことは知らなかった。おそらくキョトンとしていたんだろう、その方が「立花にある吾嬬神社へ行かれるといいでしょう」とおっしゃった。
数日後の日曜日。さっそく行ってみた。
東武亀戸線の東あづま駅から西へひとしきり歩いた地に鎮座まします鎮守社である。
境内掲示にこうあった。
「抑当社御神木楠は昔時日本武命東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと、御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて御后橘姫命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽、海上おだやかに成りぬれ共、御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋、忽然と現到る。御船をば浮洲に着けさせ、嶋にあがらせ給ひて、あ~吾妻戀しと宣ひしに、俄に東風吹来りて橘姫命の御召物、海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊、大きに喜ばせ給ひ、橘姫命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり。尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て、末代天下太平ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて、御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処、葉茂り相生の男木女木となれり。神代より今に至りて梢えの色変わらぬ萬代おさめし事、宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに、時の宮僧此御神木の葉を与えしに、病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って尊び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに、如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共、神徳の変らざる事を伝ふべし。共猶諸人の助けとならんと、略してしるす也。」
なるほど・・これか。