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堀留日本橋まぼろし散歩#16/外堀・呉服橋御門外#05

八重洲仲通りがつき当る西海岸通りに出た。
「前に並ぶビルが塞いでいるが、この向こうに日本橋川が流れている。江戸時代はは浮世絵に描かれた白壁の蔵が並ぶところだった。いまはその面影は欠片もないが・・蔵には舟着き場が有って荷物がひっきりなしに出し入れされていた。
夢二がさっきの角に小さな店を構えたころ、大正3年にはまだ面影が残っていた。隣接して色街も有ったしね、小村雪岱が書くように『誠に何とはなしに人情のある土地』だったに違いない。」
「夢二の港屋絵草紙店開店のご案内に『下街』と書いていたわね」
「ん。下町という言葉が相応しい。いまは隅田川より向こうをなんとなく指すようになっちまったが、江戸前な気質というなら、やっぱり隅田川よりこっちだ。僕はそう思うな。・・でもまあ、臨海都市なんぞという言葉が出てきて、臨海都市層なるものが生まれてくると、下町という言葉そのものが死語になっちまうのかもしれない。というか・・もうなっちまってるのかもしれないな。
ムカシ門前仲町でアソんでると、よく地元の奴らに『オメェ、土地のもンじゃねぇな』って言われたけど、いまじゃみんな"土地のもン"じゃなくなっちゃったから、そんな地元意識はさっぱり消えちまったのかもしれない」
一石橋のふもと、パールホテルの隣に日本橋西河岸地蔵寺教会がある。
境内にある掲示「日本橋西河岸地蔵寺教会の縁起」を見ると、こうある。
「当寺に安置してある地蔵菩薩は、人皇44代元正天皇(715-724)の御宇、諸国巡歴中の名僧行基菩薩が、衆生結縁のために暫く遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた折に、地蔵菩薩の霊告を受け、自ら御丈2尺8寸の御尊像を彫刻したものと伝えられています。
この地蔵菩薩は、天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして御利益を授かるところから、「日限地蔵尊」と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらたかな事は古来より広く世に知られています。
享保3年(1718)9月、勝縁の地としてここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を数えます。建立の当時は「正徳院」と呼ばれ、天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺でありました。その後、明治維新の廃仏毀釈と大正12年9月の関東大震災や戦災などによる多くの変遷を経て、今日に至っています。
なお、現在の堂宇は昭和52年4月新たに建て替えられたものです。
昭和59年9月14日 信徒一同、住職高羽彦价」

「なるほどねぇ」というと嫁さんが小銭を出して僕に渡した。
お参りをした。
お地蔵様だからね、自然に子供たちと成人した娘たちのことが心に浮かんだ。
感謝の気持ちはとても大事だと思う。
・・僕がアタマをあげると、嫁さんはまだ手を合わせたままだった。おやおや、顔をあげた嫁さんに言った。
「10円ぽっちで家内安全商売繁盛五穀豊穣交通安全千客万来横断禁止までお願いするなよ・神様だって忙しいんだ。如意宝珠のバーゲンセールはしてないぜ」
「してないわよ!」
「ならいいが」
「それにしても、モダンな感じのお社ね。建物の一部みたいな感じ」
「縁起に昭和52年4月新たに建て替えられたとあるから、その時に今のお姿になったんだろうな。『新撰東京名所図会』にはこうある。
『地蔵堂は。西河岸町に在り。日限地蔵尊を安置す。方今四海鹿峰氏之を管理す。本尊は行基の作にして。享保三年の建設に係る。其の後火災に罹り。文政七年八月再築すといふ。毎月四の日を以て縁日とし。諸商露店を張り。参詣する信者甚た多し。同日は尊前に於て。必らず家内安全子孫長久諸願成就の祈祷を修むるよしなり。』とね」
「『新撰東京名所図会』って?江戸時代の本?」
「いや、江戸時代は『江戸名所図会』それが明治の御代になって改訂版で『新撰東京名所図会』というのが出た。東京を各区ごとに分けて名所や学校/会社なんかを紹介した本だ。
四・十四・二十四がお縁日で、植木市が立って、この西河岸町通りいっぱいに露店が出たんだ。人が沢山出て、その間をお座敷帰りのすいな姐さんが行き来したんだろうな。泉鏡花の描く『日本橋』の世界だ」
僕がそう言うと、嫁さんが笑った
「なに?」
「・・だって見てきたような口ぶりだもの」

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました