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3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#11~おわり

さて。この東京大空襲の11日後の3月21日、時の首相・小磯国昭はラジオで「国難打開の途」なる放送を流した。引用する。
「敵は既に伊勢の神域を穢し、更に畏くも宮城の一隅に投弾し、わが民族信仰の中心にして神聖無二の地域に対し冒涜を敢えてしました。また相次いで各都市に暴虐なる空爆を繰返し、神社、学校、病院等を焼き払つたのみか、老人や女子や幼い子供に至るまで、無辜の国民を殺戮したのであります。何という不逞、何という暴虐でありましょう。誠に倶に天を戴かざる鬼畜の行為と申すより外はありませぬ。」
そしてこう続ける。
「この敵に対する報復の道はひとつしかないのです。即ちその野望を粉砕するまで戦って戦って戦い抜き、その驕慢なる鉾先を目茶苦茶に叩きのめすことであります。」
小磯国昭の言葉には、業火に追われて七転八倒し無残に命を奪われた無辜の民への追悼の言葉はかけらもない。あるのは責任の転嫁と陽動だけだ。
さらにこう続けた。
「皇国日本人なればこその悩みであり、焦燥であり、全身全霊を打ち込んで、この苛烈な戦争に突入して行きたいという全国民のこの真剣な叫びこそは、われわれ同胞が遠い神代の昔から承け継いで来た血脈に流れる醇乎たる愛国の至誠そのものの発露といはなければなりませぬ。私はこのような国民の魂からの叫び声を聞く度に、勇気づけられ、励まされ、どうしても勝つ、断じて戦ひ抜くといふ気魄がむくむくと生れて参ります。」
なんと呆れかえた理屈か・・ため息も出ない。彼自身は東京裁判で終身刑を宣告され、服役中の昭和25年11月3日に病死している。

しかし・・実はこの大惨事について、追悼の言葉が何もなかったのは小磯国昭だけではない。
東京都長官(知事)・西尾壽造と警視総監・坂信弥は、連名で以下のような告諭をだしている。
「東京都長官と警視総監の連名による告諭
・罹災者の救護には万全を期している。
・都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ。」
人々はこれを鵜呑みにした。惨状は「被害僅少」と大本営から発表されていたからである。
ただ一晩で10万人の命を奪うほどの惨劇だったことは、終戦を迎えるまで秘められたままにされていた。

それでも・・こうした日本政府の秘匿行為に、唯一紙つぶてを投げた政治家がいた。
大河内輝耕貴族院議員である。彼は3月14日の貴族院本会議で、淡々と大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を報告する態度に憤って、以下のように質問している。
「私の質問は、人貴きか、物貴きかと、こういう質問なんであります。
防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。
次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。
私は、人を助ける方がよいと思う。
消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。
内務大臣から隣組長などに、火は消さなくてもよいから逃げろと言っていただきたい。」
この質問に対して、大達茂雄内務大臣はノラリクラリと「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」と応え、次いで「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と言った。
以降、国会の場で「東京大空襲」について触れた議論は何も起きなかった。10万人の犠牲は、次に来るヒロシマ・ナガサキの犠牲が重なっても尚、今に至るまで真剣に議論されないままで来ている。

最後に・・被災現場撮影のために現場へ戻った石川光陽の手記の言葉を聞いて終わろう。
「現場は今朝と同じ惨状で、死屍累々として正視出来ない。その中を身内の姿を探し求める人、負傷して杖をついて歩いている人などが右往左往している。関東大震災では焼けなかった浅草観音堂も焼けており、東本願寺,浅草松屋も窓から白い煙が出ていた。
洲崎警察署に来てみると、谷未警察署長は署長室に膝に愛児を抱いて刀をついて完全な焼死体となっており、署内のあちこちに殉職した警察官の焼死体が点在している。数えてみると署長以下39名を数えた。生前豪放闊達で,私のところへもよく立ち寄っていったあの署長も殉職されたのだと思うと哀惜の情に涙が出た。川合警備隊長と挙手の礼をして、在りし日の署長や署員の冥福を祈って車に乗り、警視庁に午後5時20分帰った。
警視庁前の濠端には十数台の借りあげトラックが列らび、各警察署名を書いた旗が風になびき、死体処理に向う多くの制服警察官が乗っていた。
警務課の主計係からは被災地救援の乾パンや缶詰めの物資がトラックで運ばれている。
午後8時頃くたくたになって帰宅。ものも言わずに死んだようになって眠ってしまった。」
この日、石川は33枚の写真を撮った。それ以上は撮れなかったと述懐している。

爆風に・・銃弾に追われない者は幸いである。
しかし、もげる様な痛みや激痛が教えてくれることを知らずに、ただただ正義正論を並べるならば・・それは醜悪でしかない。
もちろん、知らないほうが良い。知らない世界を紡がなければいけない。
黙とう。


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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました