パリ・マルシェ歩き#42/サン=トゥアン03
「ラック虫Laccifer laccaを普通に見かけることはない。とても小さいし、生息地も東南アジアの亜熱帯地域が中心だ。樹木の幹や枝に寄生しているため見分けにくい。生息する樹木も限定的で、余計難しいる。シソノキSchleichera oleosa/インドタゴノキFlemingia macrophylla/パラシューバルタZizyphus mauritiana/アカシアAcacia spp/クヌギQuercus incanaなどに寄生している」
「ふうん」
「どンなもンかは、国内なら福岡の動植物園昆虫館や伊丹の私立昆虫館、大阪の私立科学館あたりで見れる・・かな。岐阜セラツク製造所が献身的に広報活動もしてるから、機会があったら見に行こう」
http://www.gifushellac.co.jp/?cat=6&p=311
「見に行ったの?」
「いや。国内ではない。僕が見たのはタイランドだ」
「チェンマイの南東にランパンという町が有る。そこに出かけた時に案内された。
ラック虫Laccifer lacca(ラックカイガラムシ)は長さ0.5mm程度、色は赤褐色、群生する。その雌が樹液を吸い取りながら分泌物を出して、その中に潜り込む。ほぼ6か月で成虫になり、3回脱皮して雌の脚や触覚、眼は次第に退化して無くなるそうだ。その分泌物を採取して精製したのがシェラックShellacだよ。このシェラックから作られるのがラック樹脂とラック染料だ」
「ラッカーは、その虫の樹液で作られるの?」
「ん。主産地はインドだ。それとタイやミャンマーだな。サン=トゥアンにあった化学工場で使用されたシェラックはインド製が多かった。ジャールカンド州Jharkhandが多かったそうだ」
「ジャールカンド州Jharkhand?どこ?」
「インド亜大陸北東側バングラデッシュに近い方だ。当初はイギリスの東インド会社EIC(East India Company)やオランダの東インド会社VOC(Dutch East India Company, Vereenigde Oostindische Compagnie)が関わっていた。19世紀になってイギリス領インド帝国が出来ると英国政府が直接販売権を持ってた。もっと東、インドネシアはオランダ領東インドになってね。こっちはオランダ政府が直接販売権を持っていたんだよ」
「フランスは、イギリスとオランダからラック樹脂とラック染料を買っていたの?」
「ん。19世紀に入るとね。そうだ」
「ふうん、ラッカーねぇ。ラック虫ねぇ。想像もしてなかったわ」
「中国はシェラックを"漆樹虫膠"と云うんだ。利用法は木材のコーティングだから、ヨーロッパと一緒だな。じつはもう一つ、中国には木材コーティング用に重要な手法が有った。漆だ」
「あ・そうね、漆もそうよね。アレは漆の樹脂を利用するのよね。・・でも樹脂だったらヨーロッパにも有ったんじゃないの?」
「漆の木は広葉樹で東南アジアから中国・日本に分布している樹木だったからな。西欧には無かった。有ったのは松脂だ。松は針葉樹で世界に分布しているから、西欧で木材コーティング用されたのは松脂だった。それが大航海時代になって、ラック樹脂が持ち込まれると、硬度も美しさもラッカーの方が断然優れていたから、金持ちたちの嗜好はこっちへ替わったんだよ。
画家たちシェラックで作品をコーティングするようになった。印刷屋はインクの接着剤としてシェラックを利用したんだ。もちろん家具屋も楽器屋も熱心にラッカーを使った」
「そのコーティング材を作った工場がサン=トゥアンに有ったわけね」
「ん」
「じゃ。あの立派な市庁舎が出来るくらいの利益は有ったわけね」
「ん。しかし工場だからな。汗水だらけになって働く人たちが必要だった。職人じゃない、工員だ」
「その仕事を求めて、沢山の人々が集まった・・」
「そう。ティエールの壁の向こうにね。サン=トゥアンは大きな町になったんだよ。それも貧富の差が極端に離れた町にね」
僕らはセーヌ川の前に立った。前にサン・トゥアン道路橋pont routière de Saint-Ouenが見える。
「前に見えるのがヴァンヌ島Ile des Vannneだ。シテ島みたいに、あの島がしばらくの間セーヌを二分してる。サン=トゥアンの工場群はあの島にも林立していた。いまは住宅街になっている。パリの近郊住宅街だ。サン=ドニ、オーベルヴィリエ、モントルイユあたりまでが、パリに隣接している低額所得者たちの住宅地だ」
「・・」
セーヌは同じ川と思えないほど、よそよそしく感じだ。川沿いにベンチもなかった。
「くたびれたわ」嫁さんが言った。
「悪いな。付き合わせて」
「お茶するところもないのね」
「いま来た道を戻ると地下鉄13番マイヨールMairie de Saint-Ouenがある。あるいは今来た道と反対側Grand Parc des Docks de Saint-Ouen公園のそばにバス65番が来てる。それに乗ればピガールまで帰れる。バス停の傍にLeroy Merlin Saint-Ouenというフランス版IKEAみたいな店が有るらしい。そこで休憩できるかもしれないな。行ったことない」
「行って無いとがっかりするから、このまま地下鉄まで歩こ」
「了解」