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悠久のローヌ河を見つめて18/城塞都市リヨンを襲ったパリ革命

革命の嵐が吹き荒れたフランス全土の中で、リヨンとボルドーはその趨勢に大きく翻弄された街だった。
何れも豪商たちの街だ。パリが"貴族の街"と云うならば、リヨン/ボルドーは"商人の街"である。
たしかに、フランス革命は第三身分である「平民」が、第一身分「教会」第二身分「貴族」に対してNOを出したものだったが、この「平民」と云う身分そのものが教会/貴族以外の"その他もろもろ"を集めた集合体だったので、彼らによる「革命政府」が一枚岩に成らなかったのは当然であろう。
大雑把な括りで云うと。フランス革命とは平民の中の商人/豪商たちが、貧しい人々を焚きつけて/煽って始まったものである。たしかに"数の論理"で圧倒的多数である平民は勝利した。しかし革命政府が成立すると今度は、商人/豪商とその他の人々が、革命によって得られる利権を巡って牙を剥き合ったのだ。その代表的なのがジャコバン派とジロンド派の反目である。しかしここでも"数の論理"が働く。商人/豪商は圧倒的少数である。趨勢は「その他の人々」が握った。しかしそれは小さな我欲の塊である。有象無象はその小さな我欲のために相食む。大きな我欲の塊である商人/豪商たちは互いの利権を守り合うことで根深い部分で繋がる。じっくりと我が世の春を待つ。
その違いが、その革命後のフランスを動かしたと云えよう。

此処では城塞都市リヨンにフォーカスしてみたい。
革命の嵐はリヨンの街でも吹き荒れた。しかしリヨンは商人の街である。なので、早い時期から革命政府内に「持つ者と持たざる者の反目」が起きた。
引き金になったのは、パリから戻った元修道士のジョゼフ・シャリエJoseph Chalierだった。彼は僧侶の身でありながらパリで反乱に参加し、バスティーユ牢獄の壁石を抱えてリヨンへ戻ると、これを聖体とした奇妙な新興宗教もどきを興し、同地でサンキュロットSans-Culotteたちの指導者になった。「持たざる者」の代表だ。
ちなみに、このサン=キュロットとは「キュロットをはかない」という意味である。キュロットは当時の貴族/豪商たちが穿いていた半ズボンのことで、貧乏人への蔑称として使わていたが、パリ革命時には、革命に参加した一般市民を指す呼称となっていた。
シャリエは過激だった。教会/貴族を解体すると共に、豪商たちの利権も解体しそうな勢いだった。
豪商たちはシャリエを恐れ、王党派と一時的に手を組み、彼をでっち上げの罪で投獄した。キレイごとを並べて出来上がった政府は、キレイごとが最弱点になる。これは今の日本政府も同じだ(敢えてアベちゃんのモリカケ問題を傍証とする)そして「私利に走る裏切り者」として死刑を宣言した。
これに革命政府は大慌てをした。シャリエの事ではない。豪商たちと王党派の結託にである。
パリ革命政府は、脅迫の意味でギロチンをリヨンに送り付けた。
ところが豪商/王党派は、これを使ってシャリエを処刑してしまった。1793年7月17日である。ところがこの送られてきたギロチン台がまともに動かない粗悪品で、シャリエの首は三回断首されても落ちなかった。そのためには最後は斧で切り落とすと云う無様な始末で終わった。
これが所謂「リヨンの反乱Siege de Lyon」の始まりである。

この反乱にパリ政府は激怒した。
約三万人の革命軍がパリから送られた。そして城塞都市であるリヨンは凄惨な戦場と化した。
しかしなぜそれほどまで大人数の革命軍が組成出来たのだろうか?実は徴兵制度のおかげである。革命政府は戦火で生活基盤を失った貧しい人々を大量に兵士として雇用し、彼らに衣食住を与えたのだ。
この革命兵士による残虐はリヨンが降伏宣言をした10月9日以降も続いた。
11月に入って革命政府から送り込まれたジョゼフ・フーシェは、まず埋葬されていたシャリエの遺体を掘り出し、派手な追悼式を開催し、同時に革命裁判を開設すると、リヨン市民を片っ端にギロチン送りにした。その粛清は3か月続き、約2000人の処刑が行われたと云う。
その暴虐ぶりに、パリ革命政府は驚嘆した。そしてフーシェとデルボアにパリへ戻るように命令した。
彼らはその咎で死刑にされることを恐れた。それが反ロベスピエール運動へ繋がり革命政府の解体へ繋がって行く。

さて。革命政府の手に落ちた教会/貴族が所有していた葡萄畑だが。
地域によって大きく差が出た。革命政府への参与の仕方で出た差である。
ボルドーの場合。競売にかけられると大半が区画単位で豪商に買い取られた。分散しなかった。革命を資金的バックアップしたジロンド派は、まさにこのジロンド川周辺(ボルドー)の豪商たちだったからだ。それが現在でもボルドーのワイナリーの多くが「シャトー/城」を名乗る理由である。
一方ブルゴーニュは、そうはいかなかった。ボルドーの教会/貴族が所有していた葡萄畑は分断され、小作人あるいは小さな農家に分配された。そのために一つの区画(たとえばシャンベルタン。シャンベルタンは多数のそれを名乗る農家がある)が細分化され、それぞれの農家がドメーヌ/農場と名乗っている。
では。ローヌ地方はどうだったか?
ローヌ地方は前述した、"平民"間で猛烈に反目した地域だったのだ。そのためボルドーのように、単純に教会/貴族から商人/豪商たちへの移権という風にはならなかった。それが現在、ローヌ地方にシャトーを名乗る畑が殆どない理由である。
ローヌは、ブルゴーニュほど分断化されなかった。もちろん革命政府によるギロチンの嵐は吹きまくり、教会/貴族の葡萄畑は競売にかけられた。しかし所有権は無暗矢鱈に小作人たちに分配されずに、比較的豊かな商人/農家へ移動して終わったのである。

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勝鬨美樹
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました