小説特殊慰安施設協会#18/銀座に立った慰安婦募集の大看板
翌朝も、千鶴子は少し早く出社した。今日来社するという連合軍将士に渡す書類を完成するためである。事務所の前に出来ている女性の列は、前日の倍以上に膨れ上がっていた。千鶴子は、彼女たちと顔を合わせないようにしながら、急ぎ足で事務所に入った。そして自分の机に着くとはすぐにリタイプを始めた。
千鶴子は、作った書類は、出来上がると先ず林穣の机の上に置く。それを夜中に林穣が、タイプミスや英訳の不備に赤を入れて、千鶴子の机の上に返す。翌朝出社した千鶴子がそれを見ながらリタイプし、再度、林穣の机に戻す。これが仕事のルーチンになっている。
千鶴子は、林部長が出社する前に、与えられた仕事を完成させるつもりだった。その夢中になってタイプする千鶴子の横に、仕入係長の長谷が立った。
「萬田、頼みがあるんだが。」
「はい!」千鶴子は吃驚して飛び跳ねるように返事した。
「悪い悪い。」長谷が笑った。「隣でオープンするビヤホールの件なんだが。実は備品で揃わないものがあるんだ。それで昨夜、林部長に相談したら、連合軍に掛け合うと言われた。」そう言いながら、長谷は手にしていた書類を千鶴子に手渡した。「これが欲しい備品の一覧だ。英訳して林部長に回してもらいたいんだが。」
「判りました。林部長がいらっしゃる前に作っておきます。私から部長に手渡して良いですか?」
「悪いね。頼むよ。ビヤホールは12日にオープンが決まった。ああそうだ。萬田ンとこの坊やも頑張ってるよ。」
「ありがとうございます。」千鶴子は小さく会釈した。
ゲンは毎朝、必ず千鶴子と一緒に出社する。今朝もそうだった。12日オープンの話は、歩きながらゲンから聞いていた。生き生きと話すゲンが、毎朝、とても気持ちよかった。
11時を少し回ったころ、林穣が連合軍将士を2名伴って出社した。
「萬田君。お二方を奥の部屋へお連れしてください。」林穣が言った。「私は君の作ってくれた書類に目を通してから行きます。私が行く前に、部屋で待っているウチの人間をお二人に紹介しておいてください。」
「はい。」千鶴子は立ち上がると将士二人に挨拶をした。
『初めまして。萬田といます。Mondayと呼んで下さい。』
千鶴子が自己紹介すると、将士二人は手を差し出した。
『アンドリュー・ワッツ中尉です。アンディと呼んでください。』 金髪を短く刈り込んだの将士が微笑みながら言った。
『ドクター・ジェレマイヤ・ブラウン中尉です。ドクターと呼んでいただければ宜しい。』黒髪の痩せ細った将士が言った。
『お二人とも軍政局の方だ。ワッツ中尉が、弊社業務についての担当をしてくれる。ブラウン中尉は公衆衛生福祉課の医師だ。我々の営業所で働く女性たちの健康管理をする。』林穣が言った。
『健康管理ではない。防疫だ。』ブラウン中尉が言った。
千鶴子はepidemicsという単語を知らなかった。でも良いことではない。そう思った。
別室に将士二人を案内すると、宮沢理事長・大竹広告副理事長・高松慰安部長・安田物資担当理事・渡辺総務部長・長谷仕入係長が控えていた。一人一人を担当業務と共に、千鶴子が通訳しながら、将士二人に紹介をしていると、書類を手にした林穣が入ってきた。
『はじめましょう。私は、お二人と既に2回お会いしています。当協会の設立意図と業務内容については、その席で充分お話しており、理解をいただいています。本日は、当協会各部門と連合軍軍政部との具体的な連携について、ある程度の取決めを話し合う席を設けたいという私の申し出と、当協会側担当責任者をご紹介したいという私のお願いを請けてくださいまして、わざわざお二人のお出ましいただけました。』林穣は席に着くと、英語と日本語で2回言った。「萬田君。私がお二人と話しているときは、貴女が皆さんに内容を同時通訳してください。」
千鶴子は頷いた。
話し合いは3時間あまりに及んだ。連合軍警察の配備と娼妓の防疫が重要な議題として話し合われた。終始、ブラウン中尉は威圧的な発言を繰り返した。実はこの時期すでに米兵の性病罹患率は、飛躍的な数になっていたのだ。アメリカは清教徒の国である。性的問題はとても難しい。どちらかというと禁欲的な国民である。そのため米兵の性病罹患率は第二次世界大戦までは、きわめて低かったのだが、世界大戦が始まると共に急上昇し、大戦後はさらに爆発的に増えいた。これは欧州でも太平洋側でも同じだった。
とくにフィリピンが陥落してからの米兵の性病罹患率は深刻な数になっていた。
将士側の申し入れにより、昼食の中断はなかった。彼らは林穣が用意したすべての書類に目を通し、メモを取りながら精力的に事案を整理決定していった。協会役員からの意見は殆ど出なかったが、軍警察についてと、一部物資の供与についての申し出は、その場で全て林穣が通訳して伝えた。ほとんどの時間、話をしているのは林穣と将士2名。そして通訳をする千鶴子だった。
話し合いが終わったあと、全員が事務所の前まで出て、将士二人が乗ってきた軍用車を送った。軍用車が去ったあと、その場で役員全員に言った。
「実は8日土曜日に、連合軍の入城があります。この通りも」林穣は目の前の銀座通りを指した。「何万もの兵士が通るかもしれません。」
役員全員が唾を飲んだ。
「大混乱するぞ。」宮沢が呻くように言った。
「それを防ぐために、事前の準備のために、あの二人はわざわざ司令部から出てきたんです。彼らと横浜税関ビルから出る時に、何台ものジープが一緒に出ましたが、田町で別れています。あれは、すべて土曜日の入城の最終準備でしょう。」
「警察は?知らされているのか?なぜそんな大事な話が我々には伝わってこんのだ。」高松部長が腹立たしそうに言った。
「高乗警察保安部課長は、今朝、横浜税関ビルにいらしてましたよ。話をしました。」
「話?」宮沢が言った。
「連合軍の一部が横浜から第一国道で東京へ入城するそうです。その途中、大森海岸で小休止を取るそうです。それで小町園で、飲み物などのサービスをしてほしいそうです。」
「なんだそりゃ!?そんな大事な話を、こんな間際に言うのか。ふざけとる。」高松が怒鳴った。「小町園の現状況をあいつらは判っとるのか。よし。高乗課長に会いに行ってくる。」
「そうしてください。高乗さんも来てほしいと言ってました。」
「しかし林部長! そんな火急な話を、なぜ一番最初にしてくれんのだ。無責任だろう!」高松が林穣を睨めつけた。
「無責任?火急な話を最初すべきですか?」林穣は高松を正視した。身長差のせいで、林穣が高松を見下ろすように見えた。「そしてすぐやらきゃ、すぐやらなきゃという浮足立った気持ちで、今後の協会の存命に関わる話し合いの席に望むんですか?皆さんをそんな精神状態に置く方が、はるかに無責任でしょう。私はそう判断しました。連合軍の休憩所の準備は、それなりに動けば出来ます。しかし今行った決定事案は、当協会の今後を決める生命線の話です。」
高松は呻いた。そしてそのまま「行くぞ、尾崎!」と、その場を離れた。
その後ろ姿を見つめながら、林穣が言った。
「安田理事。長谷君。申し訳ないのですが、高松部長に同道していただけますか?連合軍が大森海岸あたりを通るのは昼頃だそうです。兵士たちのための飲み物と軽食が必要ですが、それを出すためのテーブル類。食器類も必要です。対応する女性たちの着るものも、それなりのものが必要なはずです。万全を尽くしたい。万全を尽くしてR.A.A.の存在を、連合軍に知らしめたい。なので、ぜひ高乗保安課長から詳細を聞いてきてください。お願いします。」
安田と長谷は頷くと、厳しい顔で高松を追った。土曜日までに万全を尽くすのは相当大変な仕事量をこなすことになる。
「たしかにな。林君の言うとおりだ。もし最初に、その話をしてたら、彼らはおちおち会議なんかしていられなかったろうな。」宮沢が、駆け去る4人の後ろ姿を見ながら言った。