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聖地サンチャゴ/サンテミリオン村歩き#24

「サン=ジャン=ピエ=ド=ポーSaint-Jean-Pied-de-Portって、バイヨンヌへ行ったときに列車で訪ねた村よね」
「ん。あそこがサンチャゴ巡礼パリルート・フランス側のフランス最後の宿場だ。あそこからピレーネ山脈を越える」
「韓国人の巡礼者がいっぱいたわよね」
「ん。険しい道だから若い人じゃないと難しい」
「なるほどね、列車から見えた川に沿って細い山道が有ったわよね。巡礼者の姿が幾つも見えたわ。村の中にも途中の道にもホタテ貝を象ったプレートが色々なところにあったわよね」
「ん。ホタテ貝はサンチャゴのシンボルだからな。Coquille Saint-Jacquesというんだが、聖ヤコブのことだ。サンチャゴSantiagoはスペイン語。ラテン語はSanctus Iacobusだ」
「なぜ聖ヤコブはホタテ貝がシンボルなの?」
「ん~後付けの部分が多い。ヤコブは、ガリラヤの漁師だった。これに絡んだ発想としてホタテ貝がで出来たんだろうな。彼は西暦44年に殉教したと『使徒行伝』12:2にある」
「スペインで死んだの?」
「違う。ヘロデ・アグリッパ1世に捉えられて殺されたとある。だからスペインではない。死後、信徒たちによって密かにスペインへ運ばれたという話はある」
「そのお墓がスペインにあるの?」
「無かった。それが9世紀になって、突然彼の遺体がそこで発見されたんだよ」
「800年もたって!?」
「800年も経てば、骨だけよね?」
「いや、ちがう。聖人は腐乱しない。ベネツィアの聖マルコの遺体のときにも話したろ。聖なる者は腐らないんだ。死んだときのまま残っているとされてる」
「ああそうだったわ。聖マルコの遺体はアレキサンドリアに在ったのを、ベニスの商人たちが盗みだしたのよね。びっくりしたわ」
「サンチャゴの有るアセゴニアAssegoniaは長い間ローマの居住地だった。聖ヤコブの遺体を持ち出した信徒たちは、ここに隠したという話になってる」
「資料が残ってるの?」
「ない。それが唐突に発見されたんだ。800年経ってね。アセゴニアに運んだという話は、まちがいなく後出しジャンケンだな。実は発見された記録も後出しジャンケンだ」
「あらま」
「聖ヤコブの遺体発見の話が、史料として出てくるのは1077年になってからだんだよ。アンテアルタレスAntealtaresのコンコルディアにその経緯が書かれている。同地で暮らしていた修道士ペラヨが、村人からリブレドンの森で夜になると輝く地が有るという話を聞いて、それをイリア ・フラヴィアの司教テオドミロに知らせた。司教が畏敬なものを感じで、その地を発掘すると、ヤコブとその弟子2名の遺体が眠っていた・・とある」
「あらま」
「聖地としては、この史料より200年くらい前にもう有った。遺体は西暦820年から835年の間に発見されたと云われてる。ここを聖ヤコブ遺体発見地として聖地にしたのはアルフォンソ二世だった。アストゥリアス王はキリスト教徒だ。異教徒モスレムとの戦いに生きた人だ。彼にとってスペイン国内にビッグネームの聖地を持つことは極めて重要だったんだろう。彼は積極的にサンティアゴ デ コンポステーラの整備を行っているよ」
「ということは・・さっきの発見の話も、アルフォンソ二世の話も、全部後出しジャンケン・・ということ?」
「ん。でも必要だったんだ。レコンキスタの最後に大きなイベントとして聖地を紡ぎだすことはね」
「なるほどねぇ」

「ん・・サンティアゴ・デ・コンポステーラSが他の国の信徒から聖地として認められ、巡礼が本格化するのは1000年代に入ってからなんだよ。そのサンチャゴ巡礼ブームを鑑みながら、アンテアルタレスAntealtaresのコンコルディアが権威付けとして経緯話を書いたんだろうな。皆が認めれば客観的資料は要らない。史料は後から作れば良い」
「それはイエス・キリストの話をしたときに言ってたわよね。イエスが存在していた客観的な傍証は何もないって、彼を憎んでいたであろう勢力が、彼について書いたものもない。。って」
「西暦1000年代に入ると、欧州は寒冷な時代に入った。作物が育たなかった。不作が続いたんだ。同時に政治体制も大きく揺らいだ時期だった。大きな長い世情不安な時代だった。聖地巡礼は、その頃から痁として始まったものなんだよ。日本の"ええしゃないか"もそうだけどな、生活をすべて投げ打って出奔する衝動は『今のままではとても生きていけない』という不安からだ。第一回十字軍もね、同時期だ。1096年だ。・・それに治癒加護という奇跡が重なった。現代は、そこに"自己発見"というオマケまで付いている」
「たしかに。病気に罹るということは、当時、命に係わる問題だったわけよね」
「西ローマ帝国の崩壊に巻き込まれて崩壊寸前だった西方のローマ教会は、ガリア側に生き残る道を求めて拡散した。そのとき教会は当時最先端のローマの技術を携えていたんだよ。耕作の技術も最新だった。工業力もだ。そして医療技術もね。それなんで布教者たちは片っ端に各地で治癒加護の奇跡を起こした。ガリアの人々は熱狂したんだよ。おかげて聖者が色々な地域で乱立した。聖エミリオもその中の1人さ」
「あなたの話ぶりを聞くと、聖者のありがたみなんて全然なくなるわねぇ」
「そうか?そんなことないと思う。技術は、それを持たないものにとって奇跡だ。それと、多くの病は"気"からくるものだから、フラシーボ効果はとても有用なんだよ。聖者の奇跡に肖るのは、その一環だ。相応の効果は有ったに違いない」
「なるほどね」
「その布教者たちの奇蹟を頼って、たくさんの人々が治癒と救済を求めて、聖者となった人を訪ねるようになったのは、西ローマ教会がガリア各地で布教活動を始めた直後からだろうな。サンティアゴ・デ・コンポステーラSantiago de Compostelaは、その頂点ともいうべきものだ。それに自己発見という癒しがトッピングされたのが現代の巡礼の」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました