星と風と海流の民#10/中島敦のポナペ02
1941年12月7日午前7時48分、山本五十六を総司令官とした日本海軍は真珠湾を攻撃した。続いて2回目の攻撃は午前8時40分頃だった。電撃的な襲撃で甚大な被害を米海軍に与えた。
続いて1941年12月8日、日本軍はフィリピンを攻撃した。総司令官は、日本陸軍第14軍司令官・本間雅晴だったマニラが墜ちたのは1942年1月2日だ。戦いはバターン半島へ移った。
そして同日、日本軍はアメリカ領グアムへ侵攻している。司令官は日本海軍第55警備隊指揮官・斎藤義次。彼は陸戦隊を投入し、数日間でグアムを占領した。
香港を攻撃したのも12月8日た。司令官は日本陸軍第23軍・酒井隆中将。彼は12月25日に香港を占領した。
同じく1941年12月8日、マレー半島は日本陸軍第25軍の山下奉文が攻撃した。彼は翌年1942年2月にシンガポールを陥落させている。まさに破竹の勢い・・だったわけだ。
このとき、中島敦はサイパンにいた。当日の彼の日記を見よう。
「今日は日曜。朝、島民の集まる教会へ行って見た。讃美歌は中々上手だ。
島民の女達の一番うしろに、日本人の女が一人、ひざまずいて祈っていた。ちゃんとよそ行きの和服を着ているが、顔は、白い薄布で覆っているので見えない。わざと、顔をかくしてるんだと思う。日本人だってカトリック(伊庭なんかが行ってた教会と同じ)の信者があったって、フシギではないわけだが、島民の中に、たった一人まじって、島民の言葉が旅のお祈りにあわせて頭を下げているのは、何だか、いたましいような気がした。」
彼の耳に開戦の話が届いたのは何日か経ってからかもしれない。12月14日に妻タカの宛てた手紙に戦争の話が出てくる。
「戦争が始まって、そちらでは、さぞ、南洋の方のことを心配してくれていることと思う。
しかし、このサイパン・テニヤン地方は、全く平静だ。実際の所、グワムは他愛なく、つぶれるし、この辺は空襲を受ける心配もまず無いからね。
パラオの方は、フィリッピンに近いので、幾分の危険があることは確かだが、それも、大したことはあるまい。そう心配してくれなくても大丈夫のようだ。そりゃ戦争のことだから、多少の危険があることは覚悟しているさ。しかし、むしろ、怖いのは、喘息という病気の方だよ。いずれパラオについたら、防空のために走りまわらなければなるまいが、そのたびに、喘息を起すのでは、ちょっと、やりきれない。これだけは、どうにも憂鬱だな。この際、個人の病気のことなと言出すのは、ゼイタクかも知れないが。」
彼がミクロネシアから戻ったのは1942年3月17日だった。この帰国が彼の結核をさらに悪化させた。5月末に南洋庁へ辞表を出し、9月7日付で退職している。その直後から喘息から来る心臓疾患が酷くなり、世田谷の岡田医院に入院。12月4日、同病院で逝去している。
敦は「風物抄」のⅢでポナペのことを書いている。
「島が大きいせゐか、大分涼しい。雨が頻りに來る。
綿カボックの木と椰子との密林を行けば、地上に淡紅色の晝顏が點々として可憐だ。
J村の道を歩いてゐると、突然コンニチハといふ幼い聲がする。見ると、道の右側の家の裏から、二人の大變小さい土民の兒が――一人は男、一人は女だが、切つて揃へたやうな背の丈だ。――挨拶をしてゐるのだ。二人ともせい/″\四歳よつつになつたばかりかと思はれる。大きな椰子の根上りした、その鬚だらけの根元に立つてゐるので、餘計に小さく見えるのであらう。思はず此方も笑つて了つて、コンニチハ、イイコダネといふと、子供達はもう一度コンニチハとゆつくり言つて大變叮嚀に頭を下げた。頭は下げるが、眼だけは大きく開けて、上目使ひに此方を見てゐる。空色の愛くるしい大きな眼だ。白人の――恐らくは昔の捕鯨者等の――血の交つてゐることは明らかである。
總じてポナペには顏立の整つた島民が多いやうだ。他のカロリン人と違つて、檳榔子を噛む習慣が無く、シャカオと稱する一種の酒の如きものを嗜たしなむ。之はポリネシヤのカバと同種のものらしいから、或ひは、此處の島民にはポリネシヤ人の血でも多少はひつてゐるのかも知れぬ。
椰子の根元に立つた二人の幼兒は、島民らしくない小綺麗な服を着てゐる。彼等と話を始めようとしたのだが、生憎、コンニチハの外、何にも日本語を知らないのである。島民語だつて、まだ怪しいものだ。二人ともニコ/\しながら何度もコンニチハと言つて頭を下げるだけだ。
其の中に、家の中から若い女が出て來て挨拶した。子供等に似てゐる所から見れば、母親だらう。餘り達者でない・公學校式の角張つた日本語で、ウチヘハイツテ、休ンデクダサイと言ふ。丁度咽喉が涸いてゐたので、椰子水でも貰はうかと、豚の逃亡を防ぐ爲の柵を乘越して裏から家の庭にはひつた。
恐ろしく動物の澤山ゐる家だ。犬が十頭近く、豚もそれ位、その外、猫だの山羊だの雉だの家鴨だのが、ゴチヤ/\してゐる。相當に富裕なのであらう。家は汚いが、かなり廣い。家の裏から直ぐ海に向つて、大きな獨木舟カヌーがしまつてあり、其の周圍に雜然と鍋・釜・トランク・鏡・椰子殼・貝殼などが散らかつてゐる。その間を、猫と犬と雞(にわとり)とが(山羊と豚だけは上つて來ないが)床の上迄踏み込んで來て、走り、叫び、吠え、漁り、或ひは寢ころがつてゐる。大變な亂雜さである。
椰子水と石燒の麺麭の實を運んで來た。椰子水を飮んでから、殼を割つて中のコプラを喰べてゐると、犬が寄つて來てねだる。コプラがひどく好きらしい。麺麭の實は幾ら與へても見向きもしない。犬ばかりでなく、雞共もコプラは好物のやうである。其の若い女のたど/\しい日本語の説明を聞くと、此の家の動物共の中で一番威張つてゐるのは矢張犬ださうだ。犬がゐない時は豚が威張り、その次は山羊だといふ。バナナも出して呉れたが、熟し過ぎてゐて、餡あんこを嘗めてゐるやうな氣がした。ラカタンとて此の島のバナナの中では最上種の由。
獨木舟カヌーの置いてある室の奧に、一段床ゆかを高くした部屋があり、其處に家族等が蹲うづくまつたり、寢そべつたりしてゐるらしい。明り取りが無くて薄暗いので、隅の方は良く判らないが、此方から見る正面には、一人の老婆が傲然と――誠に女王の如く傲然と踞坐して煙草を吸つてゐる。さうして、外からの侵入者に警戒するやうな・幾分敵意を含んだ目で、私の方を凝乎じつと見てゐる樣子である。あれは誰だと、若い女に聞けば、ワタシノダンナサンノオ母サンと答へた。威張つてゐるね、と言ふと、一番エライカラと言ふ。
其の薄暗い奧から、十歳ばかりの痩せた女の子が、時々獨木舟の向ふ側迄出て來ては、口をポカンとあけて此方を覗く。此の家の者は皆きちんとした服裝なりをしてゐるのに、此の子だけは殆ど裸體である。色が氣味惡く白く、絶えず舌を出して赤ん坊の樣にベロ/\音を立て、涎を垂れ、意味も無く手を振り足を摺る。白痴なのであらう。奧から、女王然たる老婆が喫煙を止めて、何か叱る。烈しい調子である。手に何か白いきれを持ち、それを振つて白痴の子を呼んでゐる。女の子が側へ戻つて行くと、怖こはい顏をしながら、それをはかせた。パンツだつたのである。「あの兒、病氣か?」と私が又若い女に聞く。頭ガワルイといふ返辭である。「生れた時からか?」「イイヤ、生レタトキハ良カツタ。」
大變愛想のいい女で、私がバナナを喰べ終ると、犬を喰はぬかと言ふ。「犬?」と聞き返す「犬」と、女は其の邊に遊んでゐる・痩せた・毛の拔けかかつた・茶色の小犬を指す。一時間もかかれば出來るから、あれを石燒にして馳走しようといふのだ。一匹まるの儘、芭蕉の葉か何かに包み、熱い石と砂の中に埋めて蒸燒にするのである。腸はらわただけ拔いた犬が、その儘、足を突張らせ齒をむき出して膳の上に上のぼされるのだといふ。
はふ/\の態で私は退却した。
出がけに見ると、家の入口の左右に、黄と紅と紫との鮮やかなクロトンの亂れ葉が美しく簇むらがつてゐた。」